覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『螺法四千年記』=日和聡子・著」、『毎日新聞』2012年06月24日(日)付。

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今週の本棚:荒川洋治・評 『螺法四千年記』=日和聡子・著


 ◇『螺法(らほう)四千年記』(幻戯書房・2415円)
 ◇生き物たちが輝く「異風」の文学
 ことばも構成も、他で見かけることのない、異風の書き下ろし小説である。「渚(なぎさ)」「宝船」「笠貝茶屋」「詫(わ)び状」「ねむりねむるの君」「帰社」「乙女の心」「雲上の里」「身を知る雨」など二九の短章で展開。特別な表現はないので読みやすい。愛らしい生き物が、次々に登場。「今は、いつ? 古代? それとも、未来?」。渚の宿にいる印南(いなみ)は、世が変われば「白(しろ)蜥蜴(とかげ)」。いま話してた蟋蟀(こおろぎ)を、背後に回って、ぱくりと飲み込む。
 「いきっ。」
 これが印南(白蜥蜴)の、よろこびの声。奇抜。でもトカゲにとっては、いのちの声だから、たいせつな声。渚や水の関連か、弁才天が登場。楽器店に琵琶(びわ)の修理をしてもらう。修理代は年末一括払いとすることに。店長との対話。「かしこまりました。年末ご一括払いですね。ありがとうございます。」「こちらこそ。どうぞよろしく。ごきげんよう。」「またごひいきに。どうぞお気をつけてお帰りください。」
 ここかしこの、つきなみな会話が、なぜか輝いてみえるから不思議。いっぽう、同じ渚の「岩走る蛸(たこ)の乙女」は、体力が落ちた。以前なら軽かった石も、「うや?」と驚くほど重く感じることとなり、このところ「走り込み」をしている。
 <ほんのわずかにでも、こつこつ、やるのと、やらないのとでは、大違い。>
 この他、「しりしりしりしり」と這(は)う白蜥蜴の知り合いとして、「蛇の虹牟田(にじむた)や、蛙(かえる)の本庄(ほんじょう)、蠑〓(いもり)の出漣子(でれんこ)」などもいるが、弁才天の従妹(いとこ)で、諸国行脚中の火野目霊子(ひのめたまこ)も異色。生き物たちがふれあうなか、古文書「螺法四千年記」の断片がふわふわと浮かび、古代も未来も支えることになる仕組み。
 生き物たちはみな、お金がなく着るものも住まいも質素。衣食住、足りていないのだ。でもよく眠ること、眠ること。これらのようすはすべて親しみのあるもので、遠いものではない。「架空の話って、あたし、きらい。」と、蛸の乙女。<なぜ自分は生きていられるのか><誰の、何の、どうしたことのおかげで、生きることができているのか>を「不思議に思い、研究してきたのです。」という印南のことばの意味するところも、架空ではありえないだろう。
 この物語は、つくりものとして書かれたものではない。いのちというものをもつかぎり、誰が、どこにいて、どちらに向かってもたどりつく地点を見つめるために書かれている。出し物の多い長編なのに雑然とせず、むしろ整然とした印象を与えるのはそのためだ。その点でも、すぐれた作品である。
 ある村で。老夫が田に鍬(くわ)を入れて進む、そのうしろから、四匹の瓜坊(うりぼう)(イノシシの子ども)が「まるでその人のあとを慕って歩くように、ついてまわっている」。地中の虫を子どもたちが取りやすいようにと、親イノシシが土を掘り返しておいたのかもしれない。
 「もしもそうであったのなら、そうして一年の稲作の後片付けをしている人を、瓜坊たちは、親のしてくれることとまるで同じにとらえて、いや、区別できないで、しようともしないで、ひたすら恩恵にあずかっているということなのかもしれなかった。」
 老夫のあとをついて歩く、瓜坊たち。どちらの生き物も、見きわめることのできない風景のなかに置かれているのだ。このように一見特別な場面ではないときもたいせつなところに十分にふれている。心をほんとうにゆたかにしてくれるのは、このような「文学」なのだと思う。
    −−「今週の本棚:荒川洋治・評 『螺法四千年記』=日和聡子・著」、『毎日新聞』2012年06月24日(日)付。

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