覚え書:「今週の本棚:湯川豊・評 『古代ローマとの対話』=本村凌二・著」、『毎日新聞』2012年07月15日(日)付。



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今週の本棚:湯川豊・評 『古代ローマとの対話』=本村凌二・著
 (岩波現代文庫・1008円)

 ◇「歴史感」の発想が飛翔するとき
 「歴史感」という言葉が提示される。観、ではなく、感、である。この本の副題ともなっているこの言葉は、序章でその意味がおもしろい挿話のなかで明らかにされている。
 カプリ島の現地調査で、ローマ帝国の二代目皇帝ティベリウスが晩年をそこで過ごした別荘へ行った。別荘と海岸を結ぶ、急峻(きゅうしゅん)な「フェニキア人の階段」がある。若い大学院生にまじって、元老院身分の著者も一〇三八段を登ってみる。大学院生はさしずめ奴隷身分だが、わずか十七分で到着。元老院身分は四十五分かかった。ティベリウスは、自分の足でここを登り下りしたのかしら。本村氏はティベリウス帝を「感じる」ひとときをもつ。
 二千年の時を隔てて、「ときにローマ人が現代人になったり、ときに現代人がローマ人になったりする。そんなふうに歴史をながめてみる」のが「歴史感」であり、これはふえんすると、現代も歴史の一齣(ひとこま)にすぎないという感覚につながるというのだ。
 そんなふうにいくかどうかは読み進まなければ断定できないが、少なくとも私のように歴史に興味をいだいているけれど知識にとぼしい者にとっては、「歴史感」の発想はおもしろそうだ。そして、その予感はすぐに本のなかで現実になる。
 ローマが隆盛にむかう頃、大雄弁家のキケロは、ローマ人の背骨を作っているのは「父祖の遺風」に他ならない、「父祖の遺風」を守り磨きあげることが、世の掟(おきて)であり、生き方であるという。本村氏は、この思想はなんと新渡戸稲造の『武士道』にきわめて近いものだ、と指摘する。新渡戸は欧米人のキリスト教徒に、日本人は宗教がないというが、道徳はどう授けられるのかと問われ、いったんは答えに窮するが、父祖の遺風が蓄積されている武士道を見出(みいだ)すのである。あっと驚くような発想の飛翔である。
 こんなふうに筆が縦横にはずんで、おもしろさと刺激に満ちている。そして全盛期ローマの皇帝たちがエピソードに包まれてたちあがってくると、いよいよ楽しくなる。
 五賢帝のひとり、ハドリアヌス帝は治世二十一年の大半を広大な属州視察の旅についやした。そのあげく、晩年にはローマ近郊に別荘をかまえ、属州旅行の思い出になる建造物で庭園をいっぱいにした。すぐれた現実主義者は、旅、狩猟、芸術をとりわけ好む夢想家でもあった。「ハドリアヌスが夢想家であることは国家最大の秘密であったかもしれない」と本村氏はいう。並ぶ者なき強大な権力者が、二千年後の東洋のはずれの読者に、ふっと近づいてくる瞬間である。
 歴史教科書とは正反対の書きぶりだから、話は寄り道の連続でもある。古代ローマ史専攻の東大名誉教授は、人も知る競馬熱狂者で、はるばる英国に赴き、チェスター競馬場=ローマ軍の要塞(ようさい)、ダービー開催地エプソム競馬場=二世紀頃のローマ皇帝をしめす語に由来、などを視察。「歴史感」を実感しながらどれほど損をしたかは語られていないけれど。
 「感」が「観」に接近して、ハッとして目をあげることもあった。ローマ帝国拡大のメカニズムの説明で、社会構造が不安定になればなるほど、閉鎖よりも拡大によって安定をはかろうとするという見方だ。日本の戦前、困窮した人々の存在が大東亜共栄圏という目標を正当化したのも同じ力だ、と主張する。アメリカが制覇したような世界の現在を、この「歴史感」ではかってみたくなった。おそらくこれは、本村氏のもくろみが成功した結果に他ならない。
    −−「今週の本棚:湯川豊・評 『古代ローマとの対話』=本村凌二・著」、『毎日新聞』2012年07月15日(日)付。

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