「近代国家の重心は、『情念としての国家』から『機能としての国家』へとシフトを移しつつある」わけですが、この国では……






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 近代国家は、みな国民国家である。個々人の人権も、国民国家としてのまとまりによって初めて支えられる。私たちは、法に守られることを捨てて無国籍人としての生を選ぶのでないかぎり、今のところこの枠をはみ出すわけにいかない。ところでこのまとまり、つまり、ナショナル・アイデンティティそのものは、何によって維持されているのだろうか。
 これは大ざっぱに言って、二つの側面が考えられる。一つは、人種、民族、宗教、言語、生活地域などの伝統的な共通性をよりどころにしたまとまりである。この側面は、個々人が同じ国家の住民であるということを情緒的に確信させ、その相互の親近性によって心的な安定を作り出す基盤となっているから、「情念としての国家」と呼ぶことができる。
 もう一つは、法体系、政治権力機構、教育組織、通貨の同一性(と他国との差異性)などの人為的、後天的な枠組みによるまとまりが考えられる。この側面は、国家そのものの仕組みが具体的・合理的に機能する基盤を形作るから、「機能としての国家」と呼ぶことができるだろう。近代国民国家は、この二つの側面が相乗的に作用することによって、その実質が営まれ、個体の時間的空間的な限界を超えた連続性を維持してきたと言ってよい。
 さて、私たちの近代国家の住人が立ち会っている現状として注視しなくてはならないのは、このナショナル・アイデンティティを支える車の両輪のうち、前者の「情念としての国家」の側面がさまざまな理由によって根拠を希薄化させてきているという事実である。近代国家の重心は、「情念としての国家」から「機能としての国家」へとシフトを移しつつある。この流れは不可避的かつ不可逆的であって、良い面と悪い面との両面を持っている。
 よい面とは、国家が国民の生活を抑圧することが少なくなり、個人がかなりの程度まで自由に欲望を追求でき、狭量で排外的な国民意識が減圧されて国境を超えた拾い交流が可能となり、しかも国家間の不合理で致命的な衝突の可能性が少くなりつつあることである。また悪い面とは、個人どうしの間で規範感覚が薄れ、生きる目的意識が揺らぎ、社会的人格、社会的役割の存立が危うくなり、私的利害の無統制がはびこり、教育などの文化伝統が機能しにくくなるなどの点である。
 繰り返すが、この「私」的なものの拡張、個人主義意識の浸透の流れは押しとどめがたいと観念すべきである。私たちの意識の中で、公共性の感覚を支えていた古い共同性の絆は役に立たなくなっていく。しかし、悪い面がはびこるのをほうっておくわけにもいかないので、新しい公共性を立ち上げる必要や、新しい倫理のあり方を模索する必要が出てきているわけである。
 その場合、個体を超えた歴史の連続性としての「国家」的な共同性を、「私」的な生活意識の中にどう位置づけるかが問われる。今述べてきたような考えに沿うならば、それはナショナルな情念の逓減を補完すべく、「機能としての国家」の側面をいかにうまく再構成し、個人にとって抑圧的でなく、社会の平安が保たれ、戦争の危険も少なくできるようなシステムを維持していくかという課題に答えることであるだろう。
    −−小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』洋泉社、2000年、226−228頁。

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フランス革命以降、それまでの封建的な連合から「機能としての国家」という現代世界の基本単位となる「国民国家」が誕生する。

もちろん、そこでは新しい「紐帯」が要求されることにもなるが、小浜さんの指摘の通り、そこでは、同一性のシステムの享受(と服従)に準拠するか、それとも伝統的な共通性に準拠するかというパターンがその大部分を占めることになる。

誕生の経緯から概観すれば、革命後のフランスがそうであり、そう模索したように、それはやはりどうしても「機能としての国家」という「仮象」を「仮象」として受容するのが、その筋になるのだろうけれども、プレスナーが指摘する通り、その後の「遅れてきた国民」たちというのは、後者、すなわち「伝統的な共通性」に準拠することに力点をおいていることが多い。

もちろん、この両者をすぱっと割り切ることは現実には不可能だから、その相乗効果によりひとつのまとまりが形成されるけれども、そこで形成されるものというのは、結局の所、どこまでいっても「人為的、後天的な枠組み」に「過ぎない」。

まさに政治的に創造される「人為的、後天的な枠組み」に「過ぎない」から、それを例えば日本的エートスといいますか、情念として表現すれば「お上」として後生大事にするものでもないし、問題あれば漸進的に改革していけばすむだけだ。結局、仮寓にすぎないということを失念してしまうとろくなことにはならない。

そして誕生の経緯からそうであったように、そして社会システム論の合理性からもそうであるように、現実には「近代国家の重心は、『情念としての国家』から『機能としての国家』へとシフトを移しつつ」あるのが現実であろう。

しかしながら、このところのニュースを耳にすると、どうやら、この国では、せっかく築きあげた「機能としての国家」から「情念としての国家」へリソースを集中しようとしている。

そこに重点を置きすぎると、仮寓にすぎないものどうしのあつまりというトータルな世界においては、うまくいくパターンもないし、他者から敬意をうけることもないと思うンだけど、とほほのほぃ。









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