覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『私の昭和史・完結篇 上・下』=中村稔」、『毎日新聞』2012年08月26日(日)付。



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今週の本棚:三浦雅士・評 『私の昭和史・完結篇 上・下』=中村稔・著
 (青土社・各2520円)

 ◇甘え、独善を拒んだ潔癖な倫理の記録
 「昭和三十六年一月二十日、マルキ・ド・サド悪徳の栄え・続??ジュリエットの遍歴』を出版したことが、猥褻(わいせつ)文書販売同所持罪にあたるとして訳者の澁澤龍彦、出版社現代思潮社の代表である石井恭二の両氏が起訴された」が冒頭の一節。著者は詩人として著名だが、弁護士でもあり、サド裁判に被告を弁護する立場で加わったのである。
 この昭和三十六年から、平成に改元される昭和六十四年までの二十八年を、あくまでも個人的な記録として描いたのが本書。「完結篇」とある通り、先に『私の昭和史』(戦前篇)、『私の昭和史・戦後篇』上下が刊行されている。著者は昭和二年生まれ。文字通り昭和の全体を描き切ったことになる。
 本書も上下合わせて八百頁(ページ)を超す大作だが、引用すべきは最後の一節。著者は昭和天皇に戦争責任があることを明記し、にもかかわらずそれが「戦前においてすでに天皇は軍部、官僚、重臣等の実権者を制御する権力を失っていた」からであるとしたうえで、「そういう意味で昭和天皇は気の毒な方であった。むしろ現行憲法における象徴天皇制により、天皇が、権力をもたなくても、権威をもち、人間的に敬愛される存在となったのではないか」と述べ、さらに次のように結んでいる。
 「昭和は戦前、戦中、戦後とつうじて動乱の時代であった。私たちの未来に何が待ちうけているか。私は東ヨーロッパ諸国の社会体制が大きく揺らいでいることを知っていた。世界の金融システムが危機に向かっているのではないかと感じていた。私たちが何処へ行くとしても、未来はたぶん暗く、波瀾(はらん)にみちているであろうと予感しながら、私は昭和の終焉(しゅうえん)を迎えたのであった。」
 記述されているのは昭和末年の著者の心情。それからはや二十四年。逆に四半世紀以前の眼で今日を遠望している気分になる。歴史こそ文学なのだ。過去を現在のように、現在を過去のように眺める視線のその転換の仕組みにこそ文学の秘密が隠されているからだ。この一節はそのまま詩になっているのである。
 戦前篇、戦後篇を読まなくとも、完結篇だけでも十分に面白いのは、詩人かつ弁護士でもある著者の面目がもっとも躍如としているのがこの時期だから。弁護士としての著者の専門は特許法。日本企業が海外へ進出する一九六〇年代以降、必須となった領域である。たとえばソニー株式会社の成長を著者は顧問弁護士として直(じか)に体験している。しかも、守秘義務に抵触しないかぎり、すべてありのまま語られている。
 特許と同じように、著作権もまた知的財産権のひとつだが、著者は、かなり早い段階で日本文芸家協会日本近代文学館の理事職に就き、その観点から文学の推移を見守ることになった。これが生かされるのも六〇年代以降。
 詩人かつ弁護士である立場を著者が選んだのは、戦前の詩人や小説家の多くが社会人として自立していないことへの苛立(いらだ)ちがあったから。この潔癖が、六〇年代以降においてはむしろ学生運動、組合運動、ジャーナリズムに対して発揮される。甘えや独善に対して著者の眼はきわめて厳しい。学生運動の場合には文部省や大学当局、組合運動の場合には運輸省国鉄などに対していっそう厳しい。官僚も甘えているのだ。
 たとえばサド裁判において「表現の自由」を守ろうとする弁護団に対して澁澤自身が異論を唱えたことを著者は記している。法そのもの、裁判そのものを認めないという立場だからだ。遠藤周作が「澁澤さん、いっそ刑務所へ行ってしまった方が貴方(あなた)の立場は首尾一貫するんじゃないの」と忠告したというが、同じ矛盾は「大学解体」を叫ぶ大学生にも、利用者を無視してスト権ストをする国鉄労働者にも指摘できる。にもかかわらず、文部省も運輸省もこの矛盾を暴きもせず、ひたすら支離滅裂な強権を振りかざした。ジャーナリズムも同じ。ただ感情に流れた。戦前と少しも変わらなかったのだ。
 批判はアメリカとイスラエルに対してもっとも苛烈だ。羽田空港を拡張できなかった理由、すなわち成田闘争の原因が米軍横田基地の存在にあったとは知らなかった。不明を恥じるが、明言しなかった日本政府こそもっと恥じるべきだろう。
 本書の最大の特長はしかし、法の基底を支えるものとしての倫理が、最終的には人格の問題に収斂(しゅうれん)することを具体的に示したことにある。人は人格として敬意を持たれる存在になるべきなのであり、倫理は人格として形成され維持されるべきものなのだ。サンデルの正義論などより本書のほうがはるかに深く説得力がある。
 中村稔は愛想をいわない詩人だ。お世辞をいわない。頭脳明晰(めいせき)、感性豊かだが、群れることをしない。だが、友人、とりわけ高校の級友に対する友情の厚さには驚くべきものがある。友情の背後にはおそらく、何よりもまず自分自身に対してお世辞をいわない中村稔の人格がある。それがときおり巧まぬユーモアとなって笑いを誘う。相当な分量だが、最後まで一気に読ませる理由だ。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『私の昭和史・完結篇 上・下』=中村稔」、『毎日新聞』2012年08月26日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120826ddm015070030000c.html




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