覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『もうひとつの街』=ミハル・アイヴァス著「、『毎日新聞』2013年03月31日(日)付。




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今週の本棚:沼野充義・評 『もうひとつの街』=ミハル・アイヴァス著
毎日新聞 2013年03月31日 東京朝刊


 (河出書房新社・1995円)

 ◇中欧の荒々しい想像力が躍動する活劇風奇想譚

 中欧から鮮やかな文学の贈り物が届いた。その名も『もうひとつの街』。いまでも魔法のような魅力を漂わせるチェコの古都、プラハを舞台として、その現実の街と並行的に存在するもうひとつの摩訶(まか)不思議な街を探索する物語である。作者はチェコの作家にして哲学者。中・東欧版「マジック・リアリズム」の旗手として幻想小説を次々に発表しているが、その一方でデリダボルヘスを論じた批評や理論的著作もある。社会主義時代には作品を発表することができず、ビロード革命の時期に遅咲きのデビューを果たし、いまや国際的に注目される存在である。

 『もうひとつの街』の物語は、名前のない主人公の「私」が、雪の降りしきる冬のある日、プラハのカルロヴァ通りの古本屋で濃い菫(すみれ)色のビロードで装丁された不思議な本を見つけるところから始まる。中を開くと、判読できない未知の文字が「魔法のネックレスのチェーン」のように連なっていた。この世界のものとも思えないその本の虜(とりこ)になった「私」はそれを購入し、大学図書館に専門家を訪ねて意見を聞くのだが、それから次々と不思議な光景を見聞するようになり、自らも奇怪な冒険に巻き込まれていく。

 こういった設定からして、現代文学最先端というよりは、古書好きの読者にとってたまらなく懐かしい、やや古風な仕掛けの小説と言えるかもしれない。架空の不思議な本を扱った現代小説の傑作は少なくなく、ボルヘスの『砂の本』や、セルビアの作家、パヴィチの『ハザール事典』などがすぐに頭に浮かぶ。しかし、アイヴァスの筆力は、そういった先行者とはまったく異なった未知の領域に読者を運んでいき、都会の裏側に繁茂するジャングルのような世界に迷い込んだ読者は息をつく暇もなく、ページを繰っていくことになる。

 実際、次々に繰り出されるシュルレアリスム的とも呼べそうなイメージの数々は、ここで列挙することも難しい。プラハ郊外のペトシーンの丘からは津波が押し寄せてきて、その中から巨大な黒い魚が顔を出し、人間をあざ笑う。そして街には時折緑色の特別な路面電車がやってきて、線路もない森や畑を突っ切って、最後にはチベットの僧院にまで行くらしい。一度その電車に乗った者は、二度と普通の世界には帰って来られない。深夜の大学では「室内の奥地での大戦争」についての講義が行われ、主人公はやはり深夜の鐘楼の回廊でサメと格闘し、エイに乗って空を飛び、鳥の朗誦(ろうしょう)する叙事詩を聞く、といった具合だ。

 この活劇風の奇想譚(きそうたん)の背後には、二つの「帝国」の境界に生きることを運命づけられた人間の「起源」と「中心」を求める形而上(けいじじょう)的な探求という側面も強く感じられ、それがこの作品をいわば思想的にも強靱(きょうじん)なものにしている。ひょっとしたらこの「もうひとつの街」は、西欧からは「見えない」中欧という存在の隠喩になっているのだろうか。

 こういう作品に接すると、アメリカや西欧の現代文学とは明らかに異なった息吹を感じることができる。それは商品としての洗練度に関してはやや粗く見えるかもしれないが、文学が本来持っていた荒々しい想像力の手ごたえを感じさせる「もう一つのヨーロッパ」の力というものだろう。現代の世界文学は英語だけでわかるものではない。幸い、本書の訳者を初めとして、中・東欧の文学を原語で読解できる新進の優れた研究者・翻訳者が活躍を始めている。今後、紹介がさらに進むことを期待したい。(阿部賢一訳)
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