「国家のために死んだ人間には枚挙の暇がないけれど、人間のために滅んだ国家はひとつもない」。



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 まだ五歳未満でしたが、大人から「日本の兵隊さんは、天皇陛下万歳と言って死ぬのだよ」と、よく聞かされていました。しかし病院では、いつも瀕死の状態でうなされている負傷兵がいましたが、誰も「天皇陛下万歳」などとは言いません。なにか、口からうめくように言葉をもらす人がいましたが、それは「お母さん」という声でした。子ども心にも「天皇陛下万歳と叫んで死ぬ」というのは嘘ではないか、という不信感が生まれました。これも、負傷兵たちを見て受けた衝撃でした。国が嘘をつくという疑いをもった、初めての経験です。それ以来、私の心には、国家に対する不信感が根づいたと言っていいのです。大げさな言葉で言えば、「国家権力の脱神話化」の初体験であり、その後の私に大きな影響を与えました。
    −−坂本義和『人間と国家(上) ある政治学徒の回想』岩波新書、2011年、23頁。

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「地球的な諸問題と取り組まなければならない現代に生きる人間は、国家との関係において、自分のアイデンティティをどのように感じ、考えていくべきなのでしょうか」。

確かに、人間の社会の秩序やルールを維持することに国家の役割は存在します。しかし、それは国家「だけ」によって維持されているものでもありません。

「国家権力の脱神話化」を終生の課題とされた国際政治学者の坂本義和先生は、1927年にアメリカで生まれ、ほどなく上海に移り、およそ10年間をその地で過ごされました。

その折り、第一次上海事変が勃発します。坂本先生一家は日本に引き揚げる予定でしたが、ちょうど麻疹にかかってしまい、留まることになってしまいます。

家で安静にしてはいたものの、病院に通わなければならないので、戦火をくぐって通院されたそうですが、そのときの思い出が冒頭の一節です。

病院は負傷兵で溢れ、悲鳴の合間に聞こえてくるのは「天皇陛下万歳」ではなかったという。

このところ、国家によって全てを管理していこうとする風潮に安易にのっかかろうとする軽挙妄動が多い気がしますが、その結末が何を意味するのかは、歴史から学んでおくことが必要でしょう。

私はよく学生にも言いますが、「国家のために死んだ人間には枚挙の暇がないけれど、人間のために滅んだ国家はひとつもない」ですよ。







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