覚え書:「今週の本棚:中村達也・評 『<脱成長>は、世界を変えられるか?』=セルジュ・ラトゥーシュ著」、『毎日新聞』2013年06月23日(日)付。




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今週の本棚:中村達也・評 『<脱成長>は、世界を変えられるか?』=セルジュ・ラトゥーシュ
毎日新聞 2013年06月23日 東京朝刊

 (作品社・2520円)

 ◇自然に埋め込まれた人間のための倫理学

 六月初旬に来日したオランド仏大統領が、安倍首相との会談で合意した内容のひとつが原発の推進であった。さらには、核燃料サイクル原発の共同開発・輸出に関しても協力することを確認したという。そしてその数日後、アベノミクスの成長戦略の中に、原発の活用を盛り込むことを、安倍首相が表明した。脱成長を提唱し、原発を<絶望のエネルギー>と呼ぶラトゥーシュが、こうした動きをはたしてどう見るのか。そんなことを思いながら本書を読んだ。著者のラトゥーシュは、現代フランスを代表する経済学者にして思想家。前作『経済成長なき社会発展は可能か?』をきっかけに、注目を集めるようになった。

 興味深いエピソードが、「日本語版序文」に記されている。訳者の中野氏とともに京都の竜安寺を訪れたときのことである。寺のつくばい(茶庭の手水鉢(ちょうずばち))に彫られている四文字「吾唯知足(われただたるをしる)」、つまり「知足のものは貧しといえども富あり、不知足のものは富ありといえども貧し」を発見したときの驚きを彼は語っている。当時執筆中であった本書の最終章「<脱成長>の道(タオ)」は、老子の「少欲知足」の教えを引用することから始まっているからである。あたかも竜安寺での発見を予期していたかのようである。前作の発想、つまり脱成長とポスト開発を引き継ぎつつも、本書で目論(もくろ)むのは、脱成長の倫理学を構想すること、グローバル化した現代消費社会のいささか節度を欠いた生活様式に歯止めをかけるための論理を探ることである。

 それというのも、人類全体の地球環境に及ぼす負荷は、すでに一九八〇年代半ば頃に生物圏の再生産能力を超えたらしいからである。例えば、エコロジカル・フットプリントで表現される人類による地球環境への負荷は、二〇〇八年時点で、許容限度の一・五倍にも達しているという。人間の生命と生活を支えるはずの経済活動が、人間の生存基盤である生命の世界を地球規模で蝕(むしば)んでいるのである。ラトゥーシュは、そもそも人間は根源的に自然や他の人間からの<負債>を抱えた存在であることを強調する。だからこそ、人間を、社会関係のみならず、地球生命系にも埋め込まれた存在として捉え直すべきだと主張する。あらゆる関係から切り離され孤立した合理的経済人(ホモ・エコノミクス)をモデルとする経済学のパラダイムは、もちろん退けられる。

 そうしたラトゥーシュの立場からすれば、ヨーロッパで広がる脱成長型のライフスタイルに関心を寄せるのはもちろん、ラテン・アメリカの先住民族の世界観を色濃く反映したエクアドル憲法(〇八年)とボリビア憲法(〇九年)に注目するのも、ごく自然のなりゆきであろう。エクアドル憲法には「自然の権利」が、ボリビア憲法には「聖なる大地の尊重」が謳(うた)われている。そして両憲法に共通するのは、際限ない経済成長の追求から距離を置き、「自然と調和し、人々と助け合いながら共に生きること」、自然と共同体との関係の中に身を置き、つましくも豊かな生活を目指すことである。ラトゥーシュは、そこに西欧近代の個人主義とは一線を画した共同体倫理を見ている。

 いまや地球規模にまで拡大してしまった産業文明と消費文明を捉え直すために、学問分野の壁を易々(やすやす)と乗り越え、地球上の諸地域に根ざす知恵を掘り当て、諸家のアイディアを架橋しながら歴史の流れを辿(たど)る。そうして編み上げられた巨大な一枚の織物のようなラトゥーシュの主張を読み解くために、巻末に付された訳者の懇切な解説は、恰好(かっこう)の道しるべとなっている。(中野佳裕訳)
    −−「今週の本棚:中村達也・評 『<脱成長>は、世界を変えられるか?』=セルジュ・ラトゥーシュ著」、『毎日新聞』2013年06月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130623ddm015070003000c.html









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