覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『民族衣装を着なかったアイヌ』=瀧口夕美・著」、『毎日新聞』2013年08月04日(日)付。



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今週の本棚:池澤夏樹・評 『民族衣装を着なかったアイヌ』=瀧口夕美・著
毎日新聞 2013年08月04日 東京朝刊


 (編集グループSURE・2625円)

 ◇自らの立ち位置を求めた“北の出会い”の物語

 我々が日本語にできなかった西欧語の一つに「アイデンティティー」がある。

 自分は何者であるかということを社会的なフレームの中で規定する。他者に対する名乗りだが、勤務先や肩書きではなくもっと個的なもの。

 これに対応する概念が日本の文化の中にはなかった。

 そんなことを考える必要がなかったのだ。我々はみな均質の日本社会に埋め込まれていたから上下左右の位置関係を記した名刺一枚で済んできた。それ以上のことは考えなかった。

 しかしそうでない人たちもいる。単一民族という嘘(うそ)の陰に押し込められた少数民族や近代になって朝鮮半島から来た人々。日本国民である他にもう一つの資質を持っている者。

 『民族衣装を着なかったアイヌ』は一九七一年に生まれたアイヌの女性が惑いながら自分の立ち位置を確定するまでの物語である。

 偏見との戦いと一言でいうほどことは簡単でない。著者は阿寒湖のアイヌ観光の土産物店で育った。観光はアイヌにとって大事な産業だが、それは偏見の制度化につながっている。

 「問題は、観光=興味の対象が、見られるほうの許容限度を超すほどにもなることだ」と彼女は子供の時の体験を踏まえて言う。博物館の展示品と違って人は生きて生活しているのだから。

 自分たちがどういう道を辿(たど)って今いるところまで来たか、著者はまず始めに母に聞く。アイヌという抽象的な言葉を人々の生活史で具体化する。そこから祖先を辿って、十勝川下流域に住んだ曽々祖父長濱伊蔵という人に遡(さかのぼ)る(この人が生まれたのが一八七二年、私事ながらぼくの曽祖父が八歳で北海道に渡った翌年である)。八十一歳まで生きたこの人物の一生はおもしろい。馬を飼ったり魚を捕ったりする一方、十勝川渡し船を漕(こ)いでいた。地域への奉仕ということになるが、当たり前のことであり、そういう人々、そういう時代だったのだろう。

 自分の祖先だけでなく、著者はもっと広く女たちの話を聞いてまわった。その一人がアイヌではなくウイルタの北川アイ子。日本領だった樺太(サハリン)の生まれで、ここには他にニヴフエヴェンキ、サハなどの少数民族がいた。

 やがて戦争になり、戦争が終わってソ連の時代が始まった。十九歳で結婚した相手のゲルゴールは四十歳以上年上だったけれど「やさしい人だったよ」とアイ子は言う。でもその夫がシベリアに連れていかれたので朝鮮人のゴンと再婚した。そして一九五五年に日本に渡った。

 聞き書きは会話の形を残し、迂闊(うかつ)な質問で相手の機嫌を損ねたことまで書いてあって、臨場感がある。そこでまさに一つの人生が語られている。

 その先で著者は、もう当然のようにサハリンに渡ることになる。この旅行記の部分は苦労が多い分だけ読む方はおもしろい。人が人に会っているという印象が強く迫る。

 アイ子の兄のゲンダーヌが生まれた佐知というところを訪れると、そこの慰霊碑には「安らかに眠れ」という意味の文句がロシア語、ウイルタ語、ニヴヒ語、日本語、アイヌ語朝鮮語で書いてあった。そういう辺境を日本は失って単一民族の神話に立てこもった。

 アイデンティティーの曖昧さは過去を参照することで解決できる。過去は揺るぎないから、起こってしまったことだから、信頼できる。「アイヌ民族というものと、現代のアイヌである自分自身との距離がずっとつかめずにいた」という著者は間違いなくそれをつかんだ。
    −−「今週の本棚:池澤夏樹・評 『民族衣装を着なかったアイヌ』=瀧口夕美・著」、『毎日新聞』2013年08月04日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130804ddm015070023000c.html


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