覚え書:「今週の本棚:井波律子・評 『「青鞜」の冒険−女が集まって雑誌をつくるということ』=森まゆみ・著」、『毎日新聞』2013年08月11日(日)付。



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今週の本棚:井波律子・評 『「青鞜」の冒険−女が集まって雑誌をつくるということ』=森まゆみ・著

毎日新聞 2013年08月11日 東京朝刊


 (平凡社・1995円)
 ◇破天荒な「女性誌」同人が輝いた時代

 明治四十四年(一九一一)に創刊された雑誌『青鞜(せいとう)』は、平塚らいてう(一八八六−一九七一)の「元始、女性は太陽であった」という、発刊の辞こそよく知られているものの、その内実はほとんど明らかにされていない。

 本書の著者は、『青鞜』に遅れること七十三年、昭和五十九年(一九八四)から二十五年にわたり、女性三人で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を刊行しつづけた。この実践的経験を踏まえつつ、著者は各号の収録作品はむろんのこと、デザイン、校正、広告、販売など、多様な角度から雑誌としての『青鞜』を実際的に検証し、その具体像をいきいきと描き上げている。また、らいてうをはじめ、『青鞜』の同人のユニークな生の軌跡や、本郷区小石川区など、『青鞜』の同人と縁の深い地域にスポットを当て、時の彼方から「『青鞜』のあったころ」をありありと現前させる。

 明治の官吏の家に生まれた平塚らいてうは、本郷の誠之小学校卒業後、お茶の水女高師附属高等女学校に進学、さらに日本女子大に入学、卒業した。こうして当時の女性としては稀有(けう)の高い教養を身につけたものの、その能力を発揮する機会もなく、参禅して内的世界の深化を試みたりするうち、森田草平とすこぶる観念的な「心中未遂」事件を起こす。

 やがてニーチェの紹介で知られる生田長江(いくたちょうこう)に雑誌の刊行を勧められ、保持研(やすもちよし)、物集(もずめ)和(かず)など日本女子大の関係者五人が集まり、創刊号への準備を進める。資金はらいてうの母が出した。まさに、手作りの女性の雑誌というところだが、『青鞜』創刊号には、先述したらいてうの発刊の辞や物集和の小説のほか、与謝野晶子田村俊子の作品も掲載され、発行部数は千部。堂々たる船出であった。なお、表紙のデザインをしたのは、やはり日本女子大卒業生の長沼智恵、のちの高村光太郎夫人である。

 らいてうは『青鞜』発刊のきっかけを作った主宰人ではあったものの、編集、校正、広告集めなどの実務は苦手であり、創刊当初、実際の編集責任者は保持研だった。本書に描かれるらいてうのイメージはむしろ内向的かつ消極的で、けっして強烈なリーダーシップを発揮するタイプでない。

 そんな彼女とは対照的に、馬力のある保持研のような女性が次々に登場し、『青鞜』を持続させていったように見える。らいてうの熱狂的崇拝者だった大阪出身の画家尾竹紅吉(本名は一枝)、保持研が故郷の愛媛県今治に帰った後、編集責任者となった伊藤野枝がこれにあたる。彼女たちがすべて東京以外の出身だったことも興味深い。

 本書に登場する伊藤野枝の姿は、福岡から上京し辻潤と結婚、二児をもうけながら、『青鞜』の編集に奔走するなど、まことに野性的でバイタリティにあふれ、鮮烈きわまりない。次々にメンバーが入れ替わり、編集拠点も移動しながら存続した『青鞜』は、らいてうに奥村博というパートナーがあらわれ、伊藤野枝大杉栄と出会ったのを機に、大正五年(一九一六)、ついに終刊に至る。通算五年、全五十二冊。『青鞜』の破天荒な冒険は終わった。

 本書では、『青鞜』各号の「あとがき」を綿密に読み込み、当時の状況を明らかにするとともに、図版入りで各号の広告を紹介している。なかには、丸善の「新ラシイ女は萬年筆(まんねんひつ)の所有者也」という抱腹絶倒の広告などもあり、時代の雰囲気が如実に読みとれて面白い。知られざる『青鞜』の冒険と時代を描ききった好著だといえよう。
    −−「今週の本棚:井波律子・評 『「青鞜」の冒険−女が集まって雑誌をつくるということ』=森まゆみ・著」、『毎日新聞』2013年08月11日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130811ddm015070020000c.html


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