日記:『風立ちぬ』雑感 −−ひとりの人間の、その内に孕む矛盾をひとつの作品に
全体がワッーって収斂されていくことには懐疑的だから、日本テレビ+スタジオジブリを宣揚することだけは避けているんですけど、子どもが見たいというので、『風立ちぬ』を見てきました。
宮崎駿さんが自身のうちに秘めている、兵器と平和の両者への指向(思考・嗜好)を共存させるということ、すなわちひとりの人間の、その内に孕む矛盾をひとつの作品にしたことには敬意を表したい。
戦闘機の絵を描くことイコール軍国主義者なのか、といえばノーでしょう。内なるものを相対化させ飼い慣らすことはなかなかできない。
極端だけど、戦争映画みて戦争やろうゼと思うとか、ゲームのしすぎはパラノイアっていう科学的根拠を全く割愛した単純化の方がやばいのではないだろうか。
勿論、そういうパターンもなきにしもあらずだろうけど、結局それを趣味的な愛好と、現実への取り組みを共存させるのは、カルチベートの問題になってくる。
だからなし崩し的な還元主義による脊髄反射的ほど恐ろしいものはないだろう。
過去を描くことに関してアキレス腱がないわけではない。それはロマン主義の負の側面といってよい。一種美化された過去が提示されると、容易に人はそこに収斂されていく。指摘は多いと思うけれども、『風立ちぬ』は、割と意識的にその憧憬を抑制しているように感じた(勿論、創作ゆえのロマン主義もあるのだけど。
認識の地平として、ナショナリズムの良し悪し自体がナンセンスであるの同様にロマン主義の良し悪し自体にもナンセンスはあると思う。しかしながら、……そして、言い方が語弊を招きそうだけれども……、宮崎さんの育ちの良さがいい方向に機能していることは否定できないとは思う。もちろん、あそれはア・プリオリな文化資本乙というよりも、オルテガ的に捉えても良いけど、自身が生き方として獲得していくそれという意味で。
「夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない」。
私的な指向・志向・嗜好と公的な選択は全く別だ。その意味で、月並みだけど成熟した人間になれるかどうかだけだけの話。
まあ、ほとんど正反の評価は出揃っているので、今更わたしが云々感ぬん言及するのもナンセンスだけど、結果としては宮崎さんを擁護するような形になったかと思うが、脳内思考を刀狩りする清潔主義・道徳主義的強制ほど、実際のところ、現実の武力を肯定する発想と五十歩百歩であるからいたしかたない。
( むしろ、育ちの良さとしての素朴な宮崎さんの善意が、悪しきロマン主義として、アニミズム的なディープエコロジカルに傾きがちなところは、ヒコーキ好きよねんよりは、まあ、問題だとは思っているけど。 )
ちなみに、僕はあらゆる暴力に荷担することは嫌悪しますが、戦争の道具は好きですけどね。
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