日記:病院日記(8) 「ありがとう」の一言に嬉しさを覚える自分の下衆さ




ようやく帰宅。やっぱりというか、ものすごい疲れた。入浴介助だけなら、「ものすごい」と形容しないのだろうけど、そのあとGMSで24時過ぎまで仕事すると躰に堪えるなあ、と。何というか若くないことを痛感する。

朝から夕方までの入浴介助だけでも、足腰が立たないぐらい効(く)るのだけど、そのあとも立ち仕事続けるともう何がなんだかわからなくなって、ふわふわしてくる。まだ2−3年はもつだろうけど、躰が壊れてしまうなあと。

心配する看護助手の先輩からも、師長さんに行って、療養介護関係の資格をとってそのまま就職するようなコースにしてもらったほうがいいよ、何度も言われるのだけど、うーむ。もう、ちょっとだけ待って欲しいというか。

どうしようもなくなったときは、選択肢のひとつとして視野にいれるべきだろうけれども、ちょと今、格闘している課題だけは済ませておかないと踏ん切りもつかないものでね、てへげろ。

まあ、必殺!洗い人などと自分で茶化しながらやっているのですが……って、これも面倒くさいのだけど、その仕事をバカにしているわけではないという説明文を加えないと何言われるかわからんので挿入するけど……やっていると、事故が起きたらいかんので集中するけど、同時に精神も研ぎ澄まされる。

例えば、例の如く、「人様のお世話になるなどはしたない」と刷り込まれてきた高齢者の方は、毎度ながら、入浴のお手伝いをすると、「申し訳ない」つう話で手を合わせて「ありがとう」とおっしゃって下さる。しかし、自分はその言葉に嬉しさを覚えるわけで、そこに自分の下衆さも感じる訳よね。

「ありがとう」って言われたいためにやってんのか?と言われると違うけど、うれしく感じるのも厭なんだよな。また、無言で「作業」するわけにもいかないから、やりとりするのだけど、「さっぱりしましたか?」なんて聞いて「はい」って答えられて安心する自分も下衆いんだよな。

そして、鏡を鏡で映すがごとく、その下衆いを告白する、自分を観察する自分が存在してまたそこに厭にもなってしまう。ならば、「言語化」する必要などねえやろって話だけど、言語化による整理がされないままストレスとのもマズイから、ずっーと頭の中で誰何している。だけどけっこう鬱になるんだよな。

じゃあ、逆に見てみれば、銭もらってやっているンだから、それ以上・それ以下でもないと割り切ればいいという話だけど、そうなると多分、油断も生まれるのが怖いし、社会システムに馴化されるのが目に見えているからこれも厭でね。だからその両極を行きつ戻りつするしかねえのかな、と。






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