覚え書:「(特定秘密法から考える)権力と社会、市民の力信じられますか 長谷部・杉田両教授対談」、『朝日新聞』2014年03月28日(金)付。




        • -

(特定秘密法から考える)権力と社会、市民の力信じられますか 長谷部・杉田両教授対談
2014年3月28日05時00分


  
 NHK会長の言動で揺らぐ公共放送の信頼性。権力による介入や排外主義的な主張で社会が揺さぶられるなか、私たち市民は自信を取り戻せるのか。長谷部恭男・東京大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)による連続対談は今回、NHKをめぐる一連の問題を入り口に、幅広く語り合ってもらった。

 ■長谷部「内閣の極端人事、法の想定外」 杉田「前面に出る国家、支持集める」

 杉田敦・法政大教授 会長や経営委員の人事が発端となり、NHKが揺れています。公共放送への影響力を強めようという、安倍内閣中枢の意図を隠さない露骨な人事ですが、放送法にはのっとっています。

 長谷部さんは、特定秘密保護法の条文があいまいで悪用される恐れがあるという指摘に対し、「法律とはあいまいなもので、常識に基づいて運用される」と反論されてきました。しかし今回の一件は、法律が常識ではなく非常識によって運用され、そうなるとなかなか止める手立てがないことを示していませんか。

 長谷部恭男・東京大教授 日本の法制は内閣がイデオロギー的に極端な人事を行うことを想定していません。内閣が本気になれば「独裁」に近い状態もつくれないことはない。例えば最高裁の裁判官の人事は、最高裁側が推薦した候補から内閣が指名するのが慣例で、憲法には「内閣でこれを任命する」と規定されているだけです。慣例なんか関係ない、という内閣が出てくれば止められません。

 杉田 法律による規制には限界があり、最後は慣習的なものに依拠せざるを得ないということですね。

 長谷部 そうです。そしてそうした慣習は、ある種の保守主義によって支えられてきました。「長年にわたって試練に耐えた原則の方が、試練を経たことのない新しい原則よりも尊重に値する」。これはリンカーンの言葉だとされていますが、新しいことをやろうと従来のやり方を壊したりひっかき回したりするよりも、長年使われてきたやり方を大事にする方が結局は世の中の役に立つのだと。こういう考え方は、かつての自民党には広く共有されていたと思います。

 杉田 つまり、安倍内閣は保守ではないと。

 長谷部 保守ではないと思います。何も守っていないんじゃないか。ちなみに、保守の反対概念はリベラルではありません。おっちょこちょい、とでも言うべきものです。壊れてもいないものを直したり作り替えたりしたがる。「壊れてもいないものを直そうとするな」。これが保守主義の基本です。

 杉田 しかし安倍内閣が支持されている理由のひとつは、「私たちになら直せる」と言い、直そうとしてみせているからではないか。為替をいじり、武器輸出三原則を見直す。「時代錯誤だ」という批判が出ますが、安倍内閣の支持者にしてみれば、そんなこと言っていたらグローバル化にのみ込まれていくだけじゃないか、政治は手をこまねいているつもりなのかと。

 私自身は、政治への過度の期待は危険だと思っています。企業の海外流出などに対して政治にできることは極めて限定的ですから。だがそれでは多くの人は納得しない。国家が前面に出てくれば経済も社会も良くなるはずだと考え、わらにもすがる思いで安倍内閣を支持していると感じます。

 ■杉田「NHK広報化、国にマイナス」 長谷部「表現の自由、規制より自信を」

 杉田 NHKの籾井勝人会長は就任会見で「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」と言いましたが、一般の人々の反発は弱かったと感じます。政府の方針でも自由に批判できる。これが公共性の本質で、言論の公開性とは不可分です。ところが日本では公共が、国家や政府と同一視されがちです。

 英国のBBCほどではなくても、アジア地域では、NHKの評価は高い。放送が「政府広報」と化している国が多いなか、NHKは本当のことを伝えるという信頼があるからです。安倍内閣は、公共放送に政府の方針を伝えさせることが国力を高めると考えているようですが、全く逆です。

 長谷部 放送法第4条は、意見が対立する問題の番組編集にあたっては「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と規定しています。これは民放にも当てはまる。とはいえ民放は広告主からの圧力を避けられないので、公共放送がある。政府方針をそのまま流すようではむしろ公共性に反します。

 杉田 政府権力を批判的に検証し、ブレーキをかけるのがNHKを含めマスメディアが担う公共性の根幹です。しかし日本の経済力が落ちるなか、ブレーキなんかかけている場合じゃないという焦燥感が広がり、それがメディア批判につながっている。アクセルを全開にしてようやく中国に対抗できるのに、なぜブレーキをかけるのかと。メディアが公共の利益の役に立っていることが、なかなか理解されづらい。

 長谷部 しかし人間の大部分は、みんなの利益より自分の利益の方が大事です。現代においては、マスメディアや法曹集団といった中間権力に公共的な役割を期待するしかない。彼らもまた自己の利益のために動いていますが、その活動は間接的に公共の利益に結びついている。例えば新聞が権力を検証する質の高い報道をすれば、購読者の支持を得られるでしょう。

 公共の利益の実現は、個人では担い切れません。例えば中国には、共産党幹部の汚職を糾弾したり、愛国心に駆られて日本人を罵倒したりする人たちが大勢いる。彼らはおそらく公共の利益のために行動しているつもりでしょう。だが実際には社会的不満のガス抜きに利用され、結果的に現在の政治体制の維持に加担している。同様の側面は、日本にもあると思います。

 杉田 ここで考えておきたいのは、ヘイトスピーチの問題です。秩序の破壊を主張する自由をどこまで認めるか。例えばドイツでは、ナチスを礼賛するような表現の自由を認めていない。一方、日本にはそうした原則はなく、「朝鮮人を殺せ」などと街頭で叫ぶ行為に対して、公共の利益に反するから法律で規制すべきだという考え方と、言論で対抗すべきだという考え方に分かれています。

 長谷部 表現の自由についての考え方は「欧州・大陸型」と「米国・日本型」に大別されます。欧州型はヘイトスピーチのような言論を危険思想として規制する。裁判所や警察が取り締まらないと、またナチスにやられてしまうかもと、心配でたまらないわけです。

 一方の米国型は、あらかじめ排除はしない。根底にあるのは、市民社会の力を信じようという発想です。ヘイトスピーチのような言論は、政府や裁判所に排除してもらわなくても、自分たちの力で淘汰(とうた)できると。今の日本社会にそこまでの自信を持てるかというと、違和感をもつ人もいるかもしれませんが。

 杉田 戦前の国家主義の反省を踏まえ、権力に対して異論を言う場を確保し、社会が一丸となるのを防ごうというプロジェクトが戦後民主主義でした。ところがいま、当初想定された以上に、国家主義的、排外主義的なかたちで異論が噴き出し、戦後約70年間の蓄積を揺さぶっています。我々は、この日本の市民社会に自信を持てるのか。秘密法もそうでしたが、それによって、政治に対する見方や態度は変わってくるでしょう。

 長谷部 そうですね。私は人には、日本の市民社会に自信を持っている、と言うことにしています。そう言い切る人がいないと、人々の社会に対する自信は、本当に失われてしまうと考えるからです。=敬称略

 ■多様な価値観、認めることから

 「選挙で勝てば何でもできますか?」。前回の対談で示された問いの裏側には、今回の「日本社会に自信が持てますか?」があるのではないか。

 内部昇格の慣例を破り、自らの考えに近い人物を内閣法制局長官に据える。NHKの経営委員に、思想的に近い仲間を送り込む。異なる意見を認めたり議論したりせず、人事権を使って、上から同じ意見にしようとする。安倍内閣の荒っぽさと臆面のなさには驚く。ただ、その政権を選んだのは私たち有権者であることに、まずは向き合う必要があるだろう。

 「日本社会に自信が持てますか」との問いに、すぐに答えは出ない。だが、自信を持ちたいと思う。そのためには国家の論理や市場の原理にのみ込まれることなく、自分たちの力で多様な価値観を認め合う社会を築いていくしかない。結果はともかく、そのプロセスは自信につながるはずだ。(論説委員高橋純子)
    −−「(特定秘密法から考える)権力と社会、市民の力信じられますか 長谷部・杉田両教授対談」、『朝日新聞』2014年03月28日(金)付。

        • -


http://www.asahi.com/articles/DA3S11053210.html



Resize0712

Resize0711