覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『セラピスト』=最相葉月・著」、『毎日新聞』2014年04月27日(日)付。

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今週の本棚:池澤夏樹・評 『セラピスト』=最相葉月・著
毎日新聞 2014年04月27日 東京朝刊

 (新潮社・1944円)

 ◇孤立に寄り添い、心の動きを客観視

 心の動き、心のふるまいは外部から説明できるものだろうか?

 我々は日々自分でことを決めて生きていると思っている。しかしそれは安定したものではなく、破綻することも少なくない。実際の話、人はしばしば心の病理と対面する。

 心の動きを外部から説明するとは、つまり心を客観視するということだ。破綻に対して効果のある働きかけの方法を見つけ出す。

 ぼくには心は小さな窓がいくつか開いた家のように見える。ブラック・ボックスで、中の仕掛けはわからない。入ってゆくものがあって出てくるものがあるだけ。窓から覗(のぞ)いても内部の狭い範囲しか見えない。

 人のことを言っているのではない。自分の心もそういうものとしか思えないのだ。

 これは心の中の仕掛けを解明しようとした人たちの努力の成果についての報告である。

 まず著者自身。心理療法とは何かを知りたくて、セラピストに取材し、自分でもセッションを受け、更にセラピスト養成のコースに参加する。その一方で文献を博捜して歴史を辿(たど)り、先駆者たちの足跡を追う。

 仰ぐ師は河合隼雄中井久夫(この二人の名、母音の配列がほとんど同じだが、これにユング的な意味はないか、とぼくの「心」は惑う)。

 心を病む人は言葉を失うことが多い。どこをどう病んでいるかを知ろうにも問診という手段が使えない。そこで、砂を敷いた平たい箱の中に小さな家や木や人を並べて風景を作る箱庭療法や、心の促しに沿って風景を描く絵画療法が用いられる。

 著者自身が中井久夫の絵画療法を受けた話が「逐語録」としてまず出てくる。読んでいると自分のことのような臨場感がある。これと並行して、療法に効果があった実例が紹介される。箱庭療法で、「注意力が散漫で学校でけんかばかりする小学生の男の子は、始めのうちは怪獣や動物が入り乱れる激しい戦闘場面ばかり作っていたが、回を重ねるうちに穏やかになり、土地を耕す風景を作ってカウンセラーのもとを去っていった」という。

 あるいは三十六歳で視力を失った女性。河合隼雄の講演を聞いて河合の弟子にあたるカウンセラーのもとへ赴く。実年齢の本来の人格と失明を機に生まれた幼いわがままな人格が心の中で対立する。これをなんとかしなければというのが動機。

 手探りで砂にさわり、人形や模型を選んで箱庭を作った。五年に亘(わた)る十五回のセッションで、幼いわがままな人格は小学生になり、思春期を経て、大人になった(この比喩はとてもわかりやすい)。その間、「箱庭は杖であり、道標であり、暗い道を照らす灯(あか)りだった」という。

 だからといって、箱庭療法や絵画療法は「効く」という単純な結論には至らない。この失明した女性のケースを著者は二十二ページを費やしてていねいに紹介する。その間ずっと、心とは何かという根源的な問いが並走している。

 この人の手法の基本は科学である。事例を集め、検証し、その積み重ねの中から仮説を立てて真理を見出(みいだ)す。注意深く偽物を排除する。そのためにセラピスト養成コースに参加し、中井久夫の絵画療法を受ける。最後にはカウンセラーとして中井久夫に絵画療法を施す(相互の施療は心理療法の世界では珍しいことではないらしいが)。

 河合と中井について言えるのは、二人ともビッグネームでありながら権威主義のかけらもないこと。前記の失明女性は河合の講演を聞いて「こんなにわかりやすい日本語で話す人はそうはいない、と思った。なんてあたたかくて、おもしろいおっちゃんだろうと親しみを覚えた」と言う。中井は著者によるたどたどしい絵画療法を受けた後で無防備に寝てしまった。

 しかしその前に二人は大事なことを話している。

 絵画や箱庭の治療に効果があるのはそれが物語を紡ぐことだからか、という問いに中井はそこには無理があると答えて、「言語は因果関係からなかなか抜けないのですね」と言う。

 描かれた絵を心の物語の挿絵にしてしまってはいけない。村上春樹河合隼雄と親しかった。彼の物語はあちこちに謎が残る。ひょっとして彼は物語を書きながら因果関係を抜けだそうとしたのではないか。『ねじまき鳥クロニクル』を大がかりな箱庭療法・絵画療法の成果と考えるとつじつまが合うのだが。

 現実に戻れば、心の病が時代と共に変わっていっているという話は深刻だ。今の学生は自我が確立していないから悩むこともできない。煩悶(はんもん)の前にいきなり自傷。その一方で発達障害が多くなった。対人恐怖がなくなって代わりに引きこもりが増えた。社会相の変化が新しい病を生む。

 読み終わって、ぼくの「心」イメージは変わった。小さな窓のあるブラック・ボックスだが、固い四角いものではなく柔らかな不定形。

 孤立に対して寄り添うことには効果がある。寄り添う人がセラピストなのだ。
    −−「今週の本棚:池澤夏樹・評 『セラピスト』=最相葉月・著」、『毎日新聞』2014年04月27日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140427ddm015070034000c.html





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