覚え書:「今週の本棚:若島正・評 『鄙の宿』=W・G・ゼーバルト著」、『毎日新聞』2014年04月27日(日)付。

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今週の本棚:若島正・評 『鄙の宿』=W・G・ゼーバルト
毎日新聞 2014年04月27日 東京朝刊

 (白水社・3024円)

 ◇個人的体験に根ざした壮大な幻視

 <ゼーバルト・コレクション>全七冊の最終巻として刊行された本書『鄙(ひな)の宿』は、ゼーバルトが生涯にわたって関心を寄せつづけた作家や画家たちを論じた文章六篇を集めたものである。ゼーバルトの読者なら、彼の作品が小説というよりはただ単に散文としか呼べないことを知っているし、そしてまた、呼吸をとめて水中にもぐっているような、思考の運動がそのまま文章になった、あの息の長い独特の文体も知っている。そうしたゼーバルト読者から見れば、この『鄙の宿』も他のゼーバルト作品とそれほど差はなく、エッセイ集だからといって肩の力を抜いているわけではけっしてない。そこにはやはりゼーバルト独特の強度を持った文章があり、ゼーバルト的瞬間と呼ぶしかないものがある。

 一人の作家を描くときに、ゼーバルトはその作家が生き、そして死んだ時代も描こうとする。それはゼーバルトにとって、つねに具体的な手触りのあるものだ。そうして彼は、作家の体験をみずからも追体験しようとする。たとえばジャン=ジャック・ルソーを論じた「この湖が大西洋であってくれたら」は、ルソーがフランスを追われて逃れてきたサン・ピエール島に、ゼーバルトも渡ってみた、その体験記でもある。はるかな過去に生きた一個人を追ううちに、それが現在にも通じる大きな歴史の流れへとつながり、さらには国境を越えた問題へとつながっていく、ゼーバルトの作品世界はそのように準備される。

 その意味で、ローベルト・ヴァルザーを論じた「孤独な散歩者」は、ゼーバルト的瞬間に満ち、本書の白眉(はくび)であると断言してさしつかえない。長年にわたってヴァルザーをつまみ読みしてきたというゼーバルトは、「そうやって断続的にヴァルザーの書きものを手にするのと同じぐらいの頻度で、彼の肖像写真をしげしげと眺める」と書く。奇妙な趣味だと思ってはいけない。書いたものと同じくらいに、肖像写真はゼーバルトにとって、その人間の秘密へと至る通路なのである。ヴァルザーが散歩している写真から、ゼーバルトは子供の頃によく一緒に散歩した祖父のことを思い出す。そして、同じ年に亡くなったという事実をはじめとして、ヴァルザーと祖父に不思議な一致点がいくつかあることも。そうした小さな偶然の積み重なりが、次第に大きな必然を描き出す。そういう個人的な体験に根ざした壮大な幻視によって得られるのが、傑作『アウステルリッツ』を代表例とする、ゼーバルトの作品世界である。

 ゼーバルトが手にしているのは、「空間も時間も超えて一切がいかに繋(つな)がりあっているか」という認識だ。「ヴァルザーの散歩と私自身の遠出が、誕生の日と死去の日が、幸福と不幸が、自然の歴史と産業の歴史が、故国の歴史と亡命の歴史が」。孤独な散歩者ヴァルザーが道の先に見ていた景色は、ゼーバルトが見ている景色と重なる。そしてさらにその視線の先には、ルソーが見ていたサン・ピエール島の景色がある。こうして本書は、別々の対象を論じているように見えても、実はそれが一つのヴィジョンで貫かれていることが明白になる。卑小な人間は、卑小であるがゆえに大きな存在でもあることが明白になる。自分が過去の人物たちや物たちを見ているのではなく、彼岸から見られているような感覚。それがゼーバルト的瞬間の一つであり、その瞬間に、ゼーバルトは現代に生きていた、そして今なおわたしたちの現在に生きている、歴史の語り部になる。(鈴木仁子訳) 
    −−「今週の本棚:若島正・評 『鄙の宿』=W・G・ゼーバルト著」、『毎日新聞』2014年04月27日(日)付。

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