覚え書:「今週の本棚:富山太佳夫・評 『シェイクスピアの自由』=S・グリーンブラット著」、『毎日新聞』2014年04月27日(日)付。

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今週の本棚:富山太佳夫・評 『シェイクスピアの自由』=S・グリーンブラット著
毎日新聞 2014年04月27日 東京朝刊

 (みすず書房・4752円)

 ◇現代思想を駆使、縦横無尽な批評力

 シェイクスピア? 今更?、と言いたくなるかもしれない。翻訳は何種類もあるし、舞台でも上演されるし、大学で読み方を教わるし、研究だってうんざりするほどある。それなのに、また?、と言われそうな気がしないでもない。

 この手の本は−−よくぞ『シェイクスピアの自由』などというタイトルをつけたものであるが−−それを構成する各章のタイトルを見るだけで、おおよそその内容が分かるので、てっとりばやくその紹介をしてみることにしよう。それから、五つの章の冒頭も(ものによっては、と言うよりも、多くの本はそれだけで大体の内容とレベルが分かるのだ。書店で本を買うときには、大抵のひとがこれをやっているはずである)。

 まず第一章のタイトルは「絶対的な限界」。その書き出しは、「作家としてのシェイクスピアは、人間の自由を体現している」。この単純な書き出しからすると、この著者は紋切り型の単純な人物であるか、その逆であるように感じられる。

 次の第二章は「シェイクスピアにとっての美の徴」。本のタイトルにこの劇作家の名前が入っているのだから、ここでまた繰り返さなくてもいいはずなのに。その書き出しは、「レオン・バッティスタ・アルベルティは、『建築論』の中の、のちに大きな影響を及ぼすことになる一節で、美とは……」というもの。この章では、『顔相学』の本も使われ、珍しい図版も出てくる。シェイクスピアの描いた顔の文化史でもある。

 第三章は「憎悪の限界」。ここは、「状況は以下の通りである。国の中に一つの見苦しいしみ、私たちが本能的にそれから目を逸(そ)らす一つの増殖体がある」と始まる。カール・シュミットの話もでてくる。そして黒人やユダヤといった「異邦人」の話がでてくる。

 第四章のタイトルは「シェイクスピアと権力の倫理」。その書き出しは、「一九九八年、友人で当時合衆国の桂冠詩人を務めていたロバート・ピンスキーが、ホワイト・ハウスでの詩の朗読会に招待してくれた。……その際に、クリントン大統領が開会の式辞を述べた……この時期は、モニカ・ルインスキーとの情事のうわさが流れ……」。唖然(あぜん)としてしまうしかない。それと同時に、エリザベス女王の時代から、それ以前の時代から、現代までをかけめぐりながらシェイクスピアを読んでいく批評力に、私は改めて感心してしまうしかない。

 第五章は、「テオドール・アドルノにつきまとった鬼火ともいうべき『芸術の自律性』という言葉は、珍しい表現を好んで用いたシェイクスピアでも、とても出会うことの出来なかった熟語だろう」と始まる。アドルノは勿論(もちろん)二〇世紀ドイツを代表するマルクス主義者。フランスのピエール・ブルデューも登場する。そうした現代の思想を活用しながら、シェイクスピアは「文字通り己れの全てを娯楽産業に……投資したのである」と解釈し、「役者と中央集権化された国家の新しい支配者たち」の間の独特のつながりに眼(め)を向けることになる。この天才的な劇作家にとって自律性とは一体何だったのだろうか。それを問う著者がこの章につけたタイトルは、「シェイクスピアにとっての自律性」。

 現代の文学理論に通じ、新歴史主義と呼ばれる方法を確立したアメリカの偉大な研究者の手になる一冊である。博識で、笑いにくいユーモアと、数多くの引用のあふれる本である。(高田茂樹訳) 
    −−「今週の本棚:富山太佳夫・評 『シェイクスピアの自由』=S・グリーンブラット著」、『毎日新聞』2014年04月27日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140427ddm015070017000c.html





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