覚え書:「今週の本棚:中島岳志・評 『宮崎駿論−神々と子どもたちの物語』=杉田俊介・著」、『毎日新聞』2014年05月18日(日)付。


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今週の本棚:中島岳志・評 『宮崎駿論−神々と子どもたちの物語』=杉田俊介・著
毎日新聞 2014年05月18日 東京朝刊


 (NHKブックス・1620円)

 ◇身を裂き描く、対象への過剰な期待

 渾身(こんしん)の批評がここにある。読んでからしばらく時間を置いたが、まだうろたえている。

 宮崎駿(はやお)は時折、絶望的で破壊的な言葉を口にする。『もののけ姫』のタタリ神に自らを見立てながら、穴という穴から黒いどろどろとしたものが出てくる感覚を語る。彼は一体、何に怒り、何を表現しようとしてきたのか。

 宮崎には過剰な子どもへの思い入れがある。子どもは自然の力に内包され、八百万(やおよろず)の神々の「となり」にいる。しかし、世界は凄惨(せいさん)な暴力で溢(あふ)れている。薄汚い欲望が渦巻いている。そんな世界に、子どもたちは産み落とされる。そして、神々しい力は成長とともに失われていく。

 どうすれば世界に立ち向かえる「内発的な力」を育てられるか。

 宮崎の答えは、アニメーションを作ることだった。「子どもたちに対する絶対的な加害者としての自覚が、そのまま、子どもたちに対する絶対的な愛になっていく」。しかし、それは危ない。過剰な愛は、暴力的な欲望をはらんでいる。子どもを子どものままにしておこうとする愛。残酷な世界にまみれてほしくないという先回りの愛。それは子どもに対するグロテスクな所有欲と密着している。

 『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』、そして『となりのトトロ』。この頃の宮崎アニメは見事に完成している。潜在的に存在する「となり」の自然を信じ直すこと。人間の目で自然を見ないこと。人間中心主義を相対化し、自然の中に開かれていくこと。宮崎アニメは、一つの崇高な世界観を作り上げた。

 次の『魔女の宅急便』は大人へと成長する13歳の物語だ。もう子どもではない。自然から切り離され始めている。主人公のキキは、トトロのようには飛べない。不安定で、時に転落する。孤独や挫折を味わう。

 しかし、キキは町の暮らしに溶け込み、何とか生きていく。壮大な成功がある訳でもなく、英雄になることもない。小さな親切に支えられ、時に嫌な人とも折り合いをつけていく。物語は「落ち込んだりすることもあるけれど、私は元気です」で終わる。

 宮崎アニメは着陸したように見えた。しかし、その先には豚になった中年男性の姿があった。『紅の豚』だ。自然と一体化することなど到底できないニヒルな中年男。そこには宮崎の自己嫌悪が投影されていた。

 宮崎は「折り返し点」を迎える。『もののけ姫』以降、彼は「その先」に行こうと再び苦闘し始める。ラディカルな問いは、物語から整合性を奪っていく。破綻、矛盾、迷走。ストーリーは、強引な突破を続ける。「すべてが完璧に充実しきった純粋結晶としての作品は、もう、作ることができない」。そして引退。

 杉田は宮崎に対して「やりきっていない」と言う。このままで終わっていいのか。宮崎は本当にタタリ神になってしまうのではないか。

 杉田は高次の世界を希求する。それは醜悪な世界の対岸ではない。どうしようもない欲望の先に開かれる神々しい世界である。

 杉田の批評は自己を深く切り裂きながら、前へ進もうとする。痛々しい希望と宮崎への過剰な期待を動力として言葉を紡ぐ。論理の整合性を打ち破りながら。

 言いたいことはよくわかる。私の胸も張り裂けそうだ。しかし、「宮崎なら描ける」という欲望は、本当に世界を開くのか。世界は普遍的に『魔女の宅急便』の希望に落ち着くのではないか。

 引退会見で宮崎は「ジブリ美術館の展示物を描き直したい」と語った。私はそんな<となりの宮崎駿>の絵を見たい。
    −−「今週の本棚:中島岳志・評 『宮崎駿論−神々と子どもたちの物語』=杉田俊介・著」、『毎日新聞』2014年05月18日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140518ddm015070029000c.html





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