覚え書:「今週の本棚:持田叙子・評 『木霊草霊』=伊藤比呂美・著」、『毎日新聞』2014年07月06日(日)付。
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今週の本棚:持田叙子・評 『木霊草霊』=伊藤比呂美・著
毎日新聞 2014年07月06日 東京朝刊
◇持田叙子(のぶこ)評 『木霊草霊(こだまくさだま)』
(岩波書店・1944円)
◇日米を往還する詩人の鎮魂歌
伊藤比呂美さんは詩人。生活に密着し、生活に革命をおこす大胆な詩人。特に九○年代に子育てをした女性にとって、比呂美さんはとても印象的な強烈な存在である。
彼女は当時、『良いおっぱい悪いおっぱい』『おなかほっぺおしり』などの痛快で破天荒な育児エッセイを次々に発表していた。家庭で赤ちゃんと生まじめに対峙(たいじ)する密室型の育児思想を蹴とばし、子どもをしょって世界へと飛び出す狩猟型というか移民型の母性を宣言した。長女のカノコちゃんをめぐる大らかでずっこけた話、楽しかったなあ。
そのカノコちゃんが今や妊婦さん。新旧交代。母なる詩人はここ数年来、移住先の南カリフォルニアと老親の住まう熊本をゆききし、大変だった。まず母を、そして父を見送り、愛犬も逝った。ひとりの透明な時間が多くなった。小さな頃からむしょうに好きな植物たちとの、濃密で神秘的な交感がはじまった。
木や草の声が聞こえる。ざわめきが近づく。アリゾナ砂漠を旅すれば、ジャンピング・サボテンのトゲに追いかけられる。切り倒された近所のコショウの木に、物語をささげる。
アメリカと日本。気候風土や植物に違いもある、共通もある。地球の住民として大きな視野でながめる。いずれにしても、植物と等身大でつきあう。だから遠近感が変になる。
植物なの、これ動物なの?とりわけカリフォルニアの家の庭や周囲の荒地に育つ植物のきみょうな生態は印象的。たとえば庭の肉食ゼラニウム。虫や鳥を食べる。ある時はその繁(しげ)みの中にリスの死骸を落とした。
「死骸はあっという間に繁みの中に沈み、そのまましずかにニオイゼラニウムに食われていく。死臭はまるで臭わない。ニオイゼラニウム葬。私もやってもらいたいと思っている」
その他、木の皮をかむと幻覚におちいるユーカリ。人間なみに水をよく飲むバオバブの木。こっちにいたかと思うとあっちにいる、転々と歩くような草ユークリプタ。白穂をなびかせ庭や道路を占領するパンパスグラス。
西部の砂漠をころころ車輪のように走るタンブルウィードという植物のことも、この本で初めて知った。タンブルウィードは寿命をおえて根から離れた枯草。なのに走り回る。走ってタネをまきちらす。死にながら生きる。
無数の植物の名前が全ページに詰めこまれている。ユリオプス、オキザリス・ペスカプラエ、ヒポシルタ、ホヤ・カルノーサ、モンステラ、アガベ・アッテヌアータ、グレコマ、シャガ、ミョウガ、ガマ、クズ、オギ、カナムグラ、セイバンモロコシ、ニシキウツギ。
この名の羅列は、いのちの流れの環。帰化し繁茂し生殖し、枯死しては再び芽ぶく草木のエネルギーは、「死ぬも滅ぶもない」地球のいのちの本質として観想される。
すでにお気づきのように本書は、花鳥風月を愛(め)でるたおやかな植物記とはかなり異なる。どちらかというと獰猛(どうもう)なたくましい雑草や帰化植物が主人公。きれいな可愛い花はあまり登場しない。たとえばユリとかスミレとか。
日本文化の看板としての四季の情緒さえ、詩人はなかば壊しにかかる。この温暖化。「もう四季があると思い込んでいるふりをするのも限界だ」。熊本人として言わせてもらう、ちなみに熊本には「四季がない」。えんえんと酷暑がつづき、ある日すとんと寒くなる。そこらに生えるのは帰化植物ばかり。こう明かす。
たしかに。これは近来のながながしい酷暑にあえぐ私たちの多くが実感するところ。将来、列島は熱帯になるかも。前半で紹介される砂漠や荒野の植物がやけに身近に感じられるのは、この予感のせいだろう。
とすれば本書は伝統的な季節美に別れを告げ、温暖化すすむグローバルな二十一世紀に名のりをあげる、新しい植物記であるともいえる。
一方ではこのように思いきりドライ。しかし一方で、多雨の湿気にみちる熊本への想(おも)いは格別。植物のように詩人の感性も複雑なのである。
熊本は父母と暮らした地。川のほとりに家が残る。父の「しがみつくような視線」をふり切り、また夏に来るからねとアメリカへ発(た)った。梅雨の前に、父は亡くなった。
アメリカで想う。熊本の河原は今は初夏。父の逝った季節、センダンの花薫る頃。目に浮かぶ。せつない郷愁は亡き人の魂をよぶ歌。この植物記は、鎮魂記でもあるのだと気づく。
「私もいなけりゃ、父もいない、母もいない。そう思うとぽっかりと空虚である。
見なくてもわかる。河原のあそこで、センダンは風に吹かれて散り落ちている。河原の繁みの中では、雄のキジが雌を恋しがって鳴いている。ノイバラは爛熟(らんじゅく)しきって、河原じゅうが天花粉(てんかふん)をはたいたみたいに白くなっている」
いつもいた人がいなくなる不思議。同じように花は咲くのに。いのちの行方をみつめる古代の挽歌(ばんか)を想わせる。
−−「今週の本棚:持田叙子・評 『木霊草霊』=伊藤比呂美・著」、『毎日新聞』2014年07月06日(日)付。
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http://mainichi.jp/shimen/news/m20140706ddm015070021000c.html