覚え書:「今週の本棚:中村達也・評 『じゅうぶん豊かで、貧しい社会−理念なき資本主義の末路』=ロバート&エドワード・スキデルスキー著」、『毎日新聞』2014年09月14日(日)付。

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今週の本棚:中村達也・評 『じゅうぶん豊かで、貧しい社会−理念なき資本主義の末路』=ロバート&エドワード・スキデルスキー著
毎日新聞 2014年09月14日 東京朝刊

 ◇『じゅうぶん豊かで、貧しい社会−理念なき資本主義の末路』

 (筑摩書房、3024円)

 ◇経済成長に代わり「善き暮らし」目標に

 私たちは、いつまで経済成長を追い求めるのであろうか。戦後復興期を経て、ようやく日本経済が戦前の水準を回復したのが、一九五〇年代半ばのこと。それから現在までに、実質GDP(国内総生産)はほぼ一一倍に、一人当たり実質GDPではほぼ八倍にまで膨らんだ。今更ながらに、その増大ぶりに驚かされるのだが、前政権も現政権も、いぜんとして成長戦略の旗を掲げている。成長に代わる新たな目標はないのだろうか。

 今から八〇年余りも前、J・M・ケインズが、ケンブリッジ大学の学生たちを前に「孫の世代の経済的可能性」と題する講演をしたことがある。孫の世代、つまり百年も経(た)てば、経済規模は八倍ほどにまで膨らみ、人びとの基本的ニーズは満たされて、もはやそれ以上の成長を求めなくなる。その時には、週一五時間ほどの労働が一般的となり、余暇=自由時間をどう過ごすかが重要な課題となる、と。著者の一人ロバートは、あの名うてのケインズ研究者。ケインズのこの講演を引き合いに、巧みに問題をたぐり寄せ議論を深めてゆく。そして本書は、哲学研究者である子息エドワードとの共著。成長に代わるどのような目標がありうるのかを思想史の中に探り、その可能性をめぐって縦横無尽に議論を繰り広げてゆく。久々にずっしりと手応えのある作品にめぐり合うことができた。

 日本をも含めて先進諸国では、経済の規模はケインズの予想を上回るほどの成果を達成した。一方、労働時間はといえば、ケインズの予想とはおよそ異なり、大して減っていないだけでなく、過労死さえ生み出している。なぜ予想は外れたのか。ケインズは、「必要(needs)」と「欲望(wants)」の違いに気づきながら、それを立論の中心から外してしまったからではないのか。こう著者たちは考える。「必要」は、それを満たせばこれで十分という限度があるのに対して、「欲望」にはそうした限度がない。つまり、「必要」を基準にすれば、「足るを知る」状態を考えることができるのに対して、「欲望」はそれを満たすために、所得の増大、経済の成長をひたすら追い求める方向へと傾いてゆく。

 そこで著者たちは、「必要」を基準にした「善き暮らし」なるものを想定し、その実現を政策の基軸とすべきことを提案する。その「善き暮らし」を構成するのが、次の七つの「基本的価値」。すなわち、健康、安定、自己の確立、尊厳、自然との調和、友情、余暇である。これら七つは、互いに代替することのできない独立した価値であって、一つの指標に集約化することなどできない。そして、それぞれにあるレベルを達成すれば、それ以上のものを遮二無二追い求める必要などないという意味で、「足るを知る」暮らしと親和的なのである。そうした視点からすれば、近年はやりの「幸福の経済学」なるものにも、当然のことながら、厳しい評価が下される。経済学者が成長請負人から幸福請負人となって、本来は一つの指標に集約化することなどできない幸福を最大化することの危うさを衝(つ)く。

 もちろん、著者たちのいう七つの「基本的価値」は、絶対的なものなのではない。批判と改善の余地を残しつつ、あえて著者たちは自身の価値判断を示したというわけである。ところで、T・ピケティの『21世紀の資本論』がこのところ話題を呼んでいるが、本書は、およそタイプは異なるものの、それに劣らず壮大なストーリーをじっくりと味わわせてくれる久々の問題作といえそうだ。(村井章子訳)
    −−「今週の本棚:中村達也・評 『じゅうぶん豊かで、貧しい社会−理念なき資本主義の末路』=ロバート&エドワード・スキデルスキー著」、『毎日新聞』2014年09月14日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140914ddm015070018000c.html





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