日記:「ばらばら」に「関わっていく」柔軟な対応
毎月1度の有志と集まって勉強会をしておりますが、先週は、M・フーコーの『監獄の誕生』が教材でした。
フーコーが指摘した、規律権力の問題、そして「(内面化される知こそ権力」(まともな人間ほど権力の走狗)は、従来の二元論的権力論を一新しました。
初めて読んだ時の魂を鷲づかみにされるた強烈な印象は忘れがたいものがります。
90年代後半から2000年代にかけてでしょうか。フーコーは一種のブームの如く、「盛り上がり」ましたが、蓋を開けてみると、「消費」という感。重田園江さんも『ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む 』(ちくま新書)で少しそのことに言及されていたことを記憶しています。
流行の消費@鶴見俊輔はフーコーに限られませんが、時代を画する「知は力なり」の両義性はどこ吹く風で、「無智は力なり」という現代日本。色々理由はあるのでしょうが、フーコーの生きた世界と違って、この国には、前段階としての(超克されるべき)確固とした権力批判の系譜がなかったのもその一因ではないかと考えております。
西洋中心主義と「抗い」としてのマルキシズムの呪縛の重力から逃れることのできなかったサルトルは、そのことをレヴィ=ストロースによって裸の王様であることが白日の下にさらされましたが、フーコーもサルトルとは対極に位置します。しかし、監獄改善運動では同伴するから、そういう柔軟さも大事になってくるように思われます。
最近、思うのは、「運動」(=投票含む)「だけ」で解決するのではなくて、ばらばらにかかわっていくなかで、それが形になり、きがつけば大きく状況がかわるということがあり得るのではないかということ。
根源的には生-権力の自覚が必須でしょうが、アプローチはその都度でいいのではないかみたいな。
全てに一貫した政治的筋道をつけて、「真面目に」生きていくなんて不可能だけれども(そう生きようとすることは別にいいのだけど、先鋭化は人間毀損を必然スルから)、大枠では収斂するとこはあるから、そういう、いわば「ばらばら」に「関わっていく」柔軟な対応つうのもありだよなあ、と。
所謂「党派的運動」が無駄でやめろという二元論ではないですよ。
オプションを豊富に備えてパルチザンという話です。
勿論、党派的運動はイエスかノーの査問的分断になるので相対化する必要はあるけど(皮肉にも実現力のアドバンテージはあるけど)、それだけでない「関わり」をつくっていくことは今後の課題でしょう。
「こんな時代いやや」っていう感覚を可視化させて圧迫していけばいいという「一般意志2.0」が結局のところ、デジタルデバイド宜しく、「こんな時代いやや」とせしめる連中を大きくする方向へ機能しているから、その対抗言論含めて新しいオプションと繋がりの可能性をつぶしていきたくはない。