覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『なぜ神は悔いるのか−旧約的神観の深層』=イェルク・イェレミアス著」、『毎日新聞』2014年09月21日(日)付。


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今週の本棚:本村凌二・評 『なぜ神は悔いるのか−旧約的神観の深層』=イェルク・イェレミアス著
毎日新聞 2014年09月21日 東京朝刊

 (日本キリスト教団出版局・3240円)

 ◇罪悪感なく、人間が良くなるために

 日本の古代神話もそうだが、ギリシャ神話の神々は人間臭さにあふれており、なんとも親しみやすい。最高神ゼウスも人間の美女に手を出して、妻の女神に窘(たしな)められてたじたじとなったりする。ネメシス女神のように傲慢な者や不義なる富裕者を見逃さない応報天罰の神格もいるし、神々であっても妬みや悔やみなどあたり前の感がある。

 このように人間の喜怒哀楽とも似た神々の言動は神人同感説とよばれる。しかし、多神教の世界では納得できることも一神教の世界ではそうはいかないらしい。

 唯一神となると全知全能であるから、神が自分の言動を悔やむことなどありえないのだ。ところが、今日まで残された伝承、とくに旧約聖書によれば、神が前に計画したことばかりか、すでに遂行したことすらも悔いて撤回するという場面がある。

 そのためか、後世の神学者や護教論者たちは、神の約束、決定、行為が当てにならないとすれば、人々が不安と懐疑に陥りかねないと心を砕く。キリスト教の真の布教者パウロは「神がその賜物(たまもの)と召命とを悔やむことはあり得ません」と断言する。

 キリスト教以前の知識人も、なにかと気遣っていたという。たとえば、旧約聖書ヘブライ語原典をギリシャ語に訳した七十人訳では、「神の悔い」にあたる部分を、神が「心を和らげる」「行為を終結する」「熟慮する」「怒る」「憐(あわ)れむ」などという表現にして回避したのである。

 神の悔いのなかでも、きわだつ二つの話がある。一つは、人間を創造したことを悔やんで絶滅しようとした話。ノアの方舟(はこぶね)で有名だが、メソポタミア以来の洪水伝説でもある。もう一つは、イスラエルの最初の王としてサウルを選んだことを悔やみ、後に棄却してダビデを王位に就かせる話である。

 ところで、「神の悔い」という概念には、神学上で異なる二つの構想があるという。一つが過去の行為を悔いる歴史神学の構想であり、もう一つが未来に向かう預言者の構想である。人間創造もサウル王選択も過ぎ去ったことへの後悔になるわけだ。

 著者は神人同感説の弱点を指摘しながら、神の悔いには罪悪感がまったく欠けていることを強調する。神が悔いるのは、結局のところ人間がより良くなるための変更であるから認められるのだ。しかも、今度かぎりであるという拘束力をもつせいで神と人間との約束が生まれる。堕落したからこそ絶滅寸前に追いこまれたにしても、再生した人類はもはや自己規制する神に抹殺されないという安堵(あんど)感をいだくことになる。

 サウルの挫折にしても、それは序幕での否定劇であり、新たな幕開けで登場するダビデとその王朝は神との確かな結びつきをもつ。それでも、現実のイスラエルの民は救いようもない堕落に陥る。自己規制する神にも忍耐の限界があることを学ばなければならない。そこで預言者が登場する。彼らは神に災いの計画を撤回してもらうという課題を背負いこむ。そこに神の悔いを調停する預言者や旧約編纂(へんさん)者の苦闘が生まれるのである。

 本書は最適の訳者を得て読みやすい邦訳になっているが、もともとヘブライ語の語源や意味の変化にまでさかのぼる高度な専門書でもある。しかし、全知全能の神が悔いるというあり得ない事態をめぐって、徹頭徹尾に究めようとする一神教世界の論理(ロジック)へのこだわりには圧倒される。グローバル化世界で生きざるをえない多神教世界の凡俗の徒も心の隅にとどめておくべきものがある。(関根清三、丸山まつ訳)
    −−「今週の本棚:本村凌二・評 『なぜ神は悔いるのか−旧約的神観の深層』=イェルク・イェレミアス著」、『毎日新聞』2014年09月21日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140921ddm015070018000c.html





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