覚え書:「今週の本棚:海部宣男・評 『人体の物語−解剖学から見たヒトの不思議』=ヒュー・オールダシー=ウィリアムズ著」、『毎日新聞』2014年09月28日(日)付。
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今週の本棚:海部宣男・評 『人体の物語−解剖学から見たヒトの不思議』=ヒュー・オールダシー=ウィリアムズ著
毎日新聞 2014年09月28日 東京朝刊
(早川書房・2808円)
◇よくわからないながらも居心地いいわが家
徹底的に「身体」にこだわった、不思議な本である。身体を離れての「魂」の影が薄れた現在、身体は確かに私たちそのものであり、「自我」の存在場所としての意味はますます重くなっている。その割に私たちが身体のことを知らないままでいるというのも事実だ。人体は、「私たちが立ち止まってじっくり眺めることが最も少ない自然の驚異」。科学、建築や博物館という広い分野で活躍するジャーナリストたる著者はそう考え、この本にとりかかった。解剖学の勉強からはじめたのである。
というわけで、若きレンブラントの傑作「解剖学講義」の物語からこの本は始まる。当時こうした解剖は大きな呼び物で、大学には文字通りの「解剖劇場」が建てられ、多数の市民が入場料を払って詰めかけた。死体は死刑になった罪人のもので、市民は絞首刑と解剖の両方を「楽しんだ」。この絵にまつわる浩瀚(こうかん)な挿話も面白いが、実はこの一七世紀前半、ヨーロッパの医学界では、解剖学が大きな展開を見せていた。その端緒を開いて解剖学の祖と言われたのがヴェサリウスである。彼は一五四三年、二〇代の若さで才能と野心をかけて『人体の構造』全七巻を出版し、ご丁寧にも解剖用の死体をどうやって「調達」したか(むろん穏やかな方法ではない)まで、あからさまに書いた。この本をきっかけに、解剖を柱とする人体の「還元主義的研究」が爆発的に進み、体内のさまざまな小器官が発見されてゆく。ハーヴェイが血液の循環を発見し、レンブラントが傑作を描くに至る。同時代人のシェイクスピアに身体語が非常に多いのはこういう状況の影響だろうと著者はいう。かように、人体に関し絵画から文学、文化、ゴシップに至る著者のうんちくは端倪(たんげい)すべからざるもので、思わず引き込まれ大いに驚くという楽しみを味わえる。だからこの本は第一に人体にまつわる科学的文化史であり、題名の通り『人体の物語』なのである。
無論、うんちくばかりではない。私たちがよく知っているようで知っていない、複雑きわまる人体。「本書では私たちの身体と、その各部と、それらのもつさまざまな意味合いを取り上げる」という通り、人体の全体、各部分が周到にとりあげられる。だがいわゆる一般向け科学書とは、とんでもなく趣が違うのだ。例えば「脳」の章ではfMRI(機能的磁気共鳴画像法)による採用応募者診断や心理調査といった商業利用に走る科学者たちに、読み手としては思わず眉をひそめる。「心臓」では、「心」の所在が脳に移った今も心臓が人間心理でいかに重要な位置を占めているかに気付かされる。「血」で語られるのは、聖性、犠牲、穢(けが)れ、遺伝=家系……。血は実に豊富な文化史の対象であり、血の役割がほぼわかっているはずの現代の私たちもそれと無縁ではない。
こうして人体を考えてくれば、「身体の不死」問題へ向かうのは必然だ。機械による人体の補完、ロボット、「千年生きられる大事業」を展開する科学者たち……。特に米国では合成生物学や「身体の超越」による「新しい人類の可能性」がさまざま語られている。それらが消費者文化を無批判に取り入れているのではないかと、著者は危惧する。精神をどこか天空に「アップロード」して、肉体は生物圏に依存しないで済ます? そんな空想に対しては、「居心地のいいわが家であるものを牢獄(ろうごく)と見なす必要はない」というのが著者の基本的立場、この本の主張の一つでもあろう。(松井信彦訳)
−−「今週の本棚:海部宣男・評 『人体の物語−解剖学から見たヒトの不思議』=ヒュー・オールダシー=ウィリアムズ著」、『毎日新聞』2014年09月28日(日)付。
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http://mainichi.jp/shimen/news/20140928ddm015070029000c.html