覚え書:「記者の目:ノーベル文学賞に仏モディアノ氏=鈴木陽一郎(情報編成総センター)」、『毎日新聞』2014年10月29日(水)付。

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記者の目:ノーベル文学賞に仏モディアノ氏=鈴木陽一郎(情報編成総センター)
毎日新聞 2014年10月29日 東京朝刊

 ◇既成の「文学」観に一石

 フランスの作家、パトリック・モディアノ氏が今年のノーベル文学賞に決まった。20年以上前の学生時代、フランス文学を学ぼうと志した私が、最初に手に取った原書がモディアノ氏の小説「廃墟に咲く花」だった。それから初期の「エトワール広場」「パリ環状通り」「暗いブティック通り」はじめ何冊かを夢中で読んだ。その平易な文章は、フランス文学への良き導き手だった。だから今回の受賞決定に、私も感慨ひとしおである。

 モディアノ氏は今、「モディアノ中毒」という言葉があるくらい、フランスで最も読まれている人気作家だ。日本ではあまりなじみがないかもしれないが、多くの作品が翻訳されている。父親や自己の出自の探索がテーマの曖昧模糊(もこ)とした作風で知られる。「暗いブティック通り」がゴンクール賞を受賞したのをはじめ、フランスの数々の文学賞に輝いている。小説「悲しみのビラ」はパトリス・ルコント監督により「イヴォンヌの香り」というタイトルで映画化された。

 ◇仏文学界覆う閉塞感を打破

 モディアノ氏受賞の意味は二つあると思う。一つは現代フランス文学の復権だ。近年、フランス人の文学賞受賞者は、物語の楽しさより、小説の形式上の技法や言語の実験性を重視したヌーボーロマン(新しい小説)の大家だ。クロード・シモンであり、初期のル・クレジオ氏もそうだった。彼らに続く世代は物語への回帰をうたったが、小粒な印象はぬぐえず、フランス文学の退潮がささやかれた。日本の大学の仏文学科の人気も衰退の一途のようだ。

 フランス文学を学んだ私にとっては悲しい事態だ。かつて世界に君臨したフランス文学は、フーコーデリダら思想の分野でかろうじて命脈を保っていたといえる。モディアノ氏の受賞決定は、そんなフランス文学界を覆っていた閉塞(へいそく)感を吹き飛ばしたのではないか。

 もう一つの意味は、村上春樹氏のノーベル賞受賞への空気が醸成されつつあるのではないかということだ。

 いわゆる「文学」とは、華麗な文体であったり、深遠な思想であったり、息をのむようなストーリー展開であったりするだろう。だが、モディアノ氏の文学は、そんな既成の「文学」とは一線を画している。これまでノーベル賞を受賞した「文学」が持つ、いかめしさとは無縁なのだ。

 小説のバックボーンをなすのはユダヤ人の問題で、モディアノ氏自身、ユダヤ系作家を標ぼうしている。ナチス・ドイツ占領下のパリを舞台に、ユダヤ人や対独協力者が登場人物として描かれる。

 だが、哲学者のサルトルが評論「ユダヤ人」「協力者とは何か」などで論じたように差別や売国を激しく告発するのではない。ユダヤ人問題は思想として大上段から語られることなく、物語の底流に秘められる。そして、推理小説仕立てで始まるが、大団円に至るのではなく、拡散していくようなストーリー展開。ジャーナリストの文章のような簡素で飾り気のない文体。

 テーマがいかに重くても、あくまで淡々として軽やかな文学を、作家の堀江敏幸氏は「濃密な淡彩」と評した。音楽に例えるなら、荘厳なクラシックではなく、肩肘張らないジャズがぴったりくる。だから私は、「文学」の守護者であるようなノーベル賞とは縁遠い作家だと思っていた。今回の受賞決定は、いくつかの作品に接してきた私にとってはサプライズだった。

 ◇村上氏受賞の期待が高まる

 日本では毎年、村上氏がノーベル賞候補として取りざたされている。村上氏が日本のみならず、世界中にハルキストと呼ばれる熱心なファンを持ち、マスコミなどで有力視されながら受賞の報が届かないのは、「文学」の既成概念にその作品が必ずしも合致していないからではないだろうか。村上氏の作品が優れたものであることは疑いを入れないが、古めかしい「文学」を前にするとややポップに映るのかもしれない。

 しかし、モディアノ氏の受賞は、そんな既成の「文学」に一石を投じた。ノーベル賞は、新しい段階を迎えたのかもしれない。淡々とした文体、世界に多くの読者を持つこと等々、両氏には共通点が多いような気がする。モディアノ氏の「家族手帳」を翻訳した静岡大学の安永愛教授(仏文学)は「モディアノ氏の小説はアカデミックな教養を押し付けず、ポップカルチャーに通じる大衆性がある」と評する。それは村上氏の作品の特質にも通じる。モディアノ氏の受賞決定で、村上氏の受賞の期待が一層高まったと言えるのではないか。 
    −−「記者の目:ノーベル文学賞に仏モディアノ氏=鈴木陽一郎(情報編成総センター)」、『毎日新聞』2014年10月29日(水)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141029ddm005070015000c.html





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