覚え書:「今週の本棚:張競・評 『中国の「新劇」と日本−「文明戯」の研究』=飯塚容・著」、『毎日新聞』2014年11月23日(日)付。

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今週の本棚:張競・評 『中国の「新劇」と日本−「文明戯」の研究』=飯塚容・著
毎日新聞 2014年11月23日 東京朝刊



 ◆飯塚容(ゆとり)・著

 (中央大学出版部・2916円)

 ◇地道な努力で演劇交流の謎を解く

 明治大正年代、日本留学中の中国人学生は新派の演劇に出会い、かつて見たことのない舞台に感動した。彼らのうち、藤沢浅二郎など新派俳優に師事し、東京で演劇活動を試みた者もいた。やがて中国に帰国した若者たちは「文明戯」という新しい演劇を始めた。京劇などの伝統演劇と違って、音楽も舞踊もなく、台詞(せりふ)と仕草だけの芝居はのちに近代演劇や映画の発展に大きく寄与した。

 「文明戯」と日本の新派の影響関係について、これまでにも断片的に語られていたが、全体像は解明されておらず、細部は謎に包まれたままである。著者はこの難しい課題に立ち向かい、長年の研鑽(けんさん)の成果を一書にまとめた。

 中国の新劇における日本の影響は大きく二つの類型に分けられる。一つは日本の舞台で演じられた劇の翻訳と上演で、徳富蘆花原作の新派劇『不如帰( ほととぎす )』や、佐藤紅緑(こうろく)原作の『雲の響』と中国語訳の『社会鐘』などがその代表例である。この場合、脚本だけでなく、演劇方法も模倣されている。

 もう一つは作品が翻訳され、中国で脚色、上演されたものである。黒岩涙香の翻訳小説『野の花』はまず『空谷蘭』という作品名で中国で重訳され、やがて脚本化され、舞台で演じられるようになった。村井弦斎(げんさい)の『両美人』や佐藤紅緑が訳した『犠牲』などもその部類に入る。

 演劇の場合、影響関係の特定は難しい。小説や詩と違って、演劇は俳優中心の文芸である。観客にとって脚本よりも誰が演じるかが重要で、明治大正時代には名優が作家に脚本の作成を依頼することも珍しくない。

 そもそも、近代初期の演劇は必ずしも脚本があったわけではない。あっても脚本通りに演じられるとは限らない。それに上演中にアドリブがあり、舞台の上でどのように展開されたかは、演じる当人か、舞台を見た人でないとわからない。ましてや、脚本が残っていない演劇となると、いよいよ真相は掴(つか)みにくい。

 もっと厄介なのは、文化の二重翻訳という問題である。翻訳とはいっても、明治期には欧米小説の翻案が多い。中国語に再翻案されると、原作とはもはや似ても似つかないものになってしまう。ヴィクトリアン・サルドゥーの『ラ・トスカ』がたどった運命はそのことを如実に語っている。この作品は田口掬汀(きくてい)の翻案で『熱血』という新派の芝居になり、さらに中国人留学生によって『熱涙』として重訳された。登場人物はまず日本の人名になり、さらに中国人に化けて舞台に現れてくる。内容も日本と中国の社会状況に合わせて変更されている。歴史の地層から演劇精神の化石を見つけ出すには、複雑に重なり合う岩盤を丁寧に試錐(しすい)するしかない。脚本のない演劇を究明するとき、唯一、頼りになるのは、当事者たちの証言であり、同時代の劇評である。著者は新聞や雑誌はいうにおよばず、各種の上演記録、劇場で配布されたパンフレットや配役表および回想録など、可能なかぎり資料を蒐集(しゅうしゅう)し、丁寧に読み込んだ上、詳細な分析が行われている。

 そうした地道な努力が功を奏し、新しい事実はいくつも発見された。中国の文明戯『犠牲』は佐藤紅緑訳のユゴー『アンジェロ』からの重訳であることはこれまで知られておらず、本書によってはじめて指摘された。また、文明戯『血蓑衣』は村井弦斎の『血の涙』ではなく、『両美人』の翻案だと突き止めたのも大きな収穫であろう。猟人のような鋭い勘、職人のような辛抱強さがあったからこそ、そうした難題は解決されたのである。
    −−「今週の本棚:張競・評 『中国の「新劇」と日本−「文明戯」の研究』=飯塚容・著」、『毎日新聞』2014年11月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20141123ddm015070016000c.html





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