覚え書:「今週の本棚:荒川洋治・評 『フラナリー・オコナーとの和やかな日々』=ブルース・ジェントリーほか編」、『毎日新聞』2014年12月28日(日)付。


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今週の本棚:荒川洋治・評 『フラナリー・オコナーとの和やかな日々』=ブルース・ジェントリーほか編
毎日新聞 2014年12月28日 東京朝刊

 (新評論・3672円)

 ◇先進的「純文学作家」の実像を語り伝える

 アメリカの女性作家フラナリー・オコナー(一九二五−一九六四)は、読む人の心が壊れるような強烈な作品を書いて三九歳で亡くなった。二五歳のとき全身性エリテマトーデスという難病に。人生最後の一四年間は南部ジョージア州郊外の農場で病気とたたかいながら書きつづけた。そのときのようすはあまり知られていない。本書は彼女を身近に知る一〇人(作家、編集者、修道女、隣の農場の人など)の回想をインタビューで構成。先進的な作家の素顔を伝える。

 オコナー作品の邦訳は『オコナー短編集』須山静夫訳(新潮文庫・一九七四)、横山貞子訳『フラナリー・オコナー全短篇』上・下(ちくま文庫・二〇〇九)など。長編の新版は『烈しく攻むる者はこれを奪う』佐伯彰一訳(文遊社・二〇一三)。生彩を放つのは短編だ。「善人はなかなかいない」は、いのちごいしたにもかかわらず老婦は突然殺される。「田舎の善人」は聖書を売り歩く青年の話。義足をつけた知的な娘に近づき、木の足がくっついているところを見たいという(彼女は、そんなこといわれたことないのでうれしい)。青年は、いきなり義足を奪って走り去る。現実の深層に強い光をあてる。それがオコナーだ。「このセールスマンが義足を盗むだろうと私が知ったのは、彼がそのことをするより十行ほど前になったときである」「この物語は読者にショックをあたえるが、その理由の一つはこの物語が作者にショックをあたえるからだと思う」。新潮文庫・解説に引用された、オコナーのことばだ。善も、悪も書く。書き切る。文学の奥の深さをオコナーの小説で知る人は多い。

 オコナーは、自分の天職は純文学作家であるという極めて固い決意をもっていた。カトリックの信仰も明確にしていた。だが作家セシル・ドーキンズは「フラナリーを偉大にしているのは、彼女のカトリック信仰」ではないとし、「物語に恒久的な価値があるのは、それがきちんとした文学だからです」。作品については「的確な耳をもって聞き取られた会話」「完璧なテンポ」「前方に少し傾斜する展開」を指摘する。

 孤独だが、誠実で楽しい人だったらしい。若いときからの友人ルイーズ・アボットが、なぜ小説を書くのかときくと、「私は上手に書けるから書くのよ」とオコナーは答えた。編集者ロバート・ジルーは「彼女は私を連れて農場を案内してくれました。すべてのクジャクに会っています」。そう、オコナーは孔雀をいっぱい飼っていた。みなオコナーその人に出会ったことを人生のよろこびと感じている。どの話も興味ぶかい。

 オコナーの描く暴力は当時の人にはグロテスクで現実離れしたもの。テロや殺人など「ありとあらゆる暴力が現実に行われている現代」を予見したのかという聞き手のことばも印象的。暴力だけではない。人間の姿すべてをおおうスケールでオコナーは書いた。「高く昇って一点へ」(須山静夫訳)では、「自分がどういう人間であるか」知っていると胸を張る母親に、息子はいう。「自分がどういう人間かわかっているといっても、それだってたった一世代のあいだ効き目があるだけです」

 鋭い見方だ。単独の心理と、複数の呼吸。オコナーによって見つけ出されたものは多い。現実では出会えないような特別な文学だ。本書はその扉となる一冊である。オコナーの家系図、主要作品のあらすじも付く。(田中浩司訳)
    −−「今週の本棚:荒川洋治・評 『フラナリー・オコナーとの和やかな日々』=ブルース・ジェントリーほか編」、『毎日新聞』2014年12月28日(日)付。

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