覚え書:「今週の本棚:養老孟司・評 『捏造の科学者−STAP細胞事件』=須田桃子・著」、『毎日新聞』2015年01月25日(日)付。

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今週の本棚:養老孟司・評 『捏造の科学者−STAP細胞事件』=須田桃子・著
毎日新聞 2015年01月25日 東京朝刊
 
 (文藝春秋・1728円)

 ◇「大発見」崩壊までを克明に描く

 最近大きく報道された事件について、あれこれ考えるのは気が乗らない。大勢の人が関心を持っているのだから、お任せすればいいので、私まで参加する必要もあるまい。生来のへそ曲がりだから、そう思っていた。

 ところが本書を読みだしたら、息がつけない。あっという間に読み終えてしまった。科学にゆかりのある人なら、多かれ少なかれ身に覚えのある出来事だからである。著者は毎日新聞の科学環境部の記者で、いわゆるSTAP細胞について最初の記者発表から報道を続けてきた。ということは最初は大発見だと報じているわけである。その大発見が時間の経過とともに次第に崩れ、最後には「捏造(ねつぞう)」というしかなくなってしまう。その足跡を克明にたどっている。

 なぜ「大発見」が「捏造」になってしまったのか。著者はそれを追求しようと思う。そう思うのはいわば当然で、本書が成立した動機はごくわかりやすい。だから読みやすく、著者の熱意がそのまま伝わってくる。臨場感が強い、といってもいい。

 タイトルは『捏造の科学者』で、三人の中心人物の写真がカバーになっている。まあこれがつまりジャーナリズムで、表紙しか見ない人は、この三人が共謀して「捏造」したのだな、と思うかもしれない。中身を読んでみれば、話はそう単純ではないとわかるはずである。

 この分野は発生工学とも呼ばれ、ほぼ四十年前イギリスのガードン、ブリグス、キングの共著によるカエルのクローンの生成が最初だった。それが山中伸弥・京大教授のiPS細胞にまで至り、ガードンと山中が二〇一二年にノーベル賞を受賞することになった。iPS細胞は再生医療に使える可能性が高いということから近年注目を集め、それが事件の大きな背景となっている。

 事件の発端は理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)で、小保方晴子・研究ユニットリーダー、笹井芳樹・CDB副センター長、若山照彦・山梨大教授の三人による記者発表である。「体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発見−−細胞外刺激による細胞ストレスが高効率に万能細胞を誘導−−」というタイトルだった。細胞外刺激とは酸性溶液で、まあオレンジジュースみたいなもの、と紹介された。万能細胞とは、これから様々な種類の細胞に分化する能力を持つ細胞という意味である。受精卵はもとより、iPS細胞、ES細胞などが知られている。オレンジジュースみたいな刺激でできた、今度の細胞は、STAP細胞と名付けられた。

 記者発表のタイトルを見ただけで、これはジャーナリズムだな、と老人の私は思う。いわば哲学的にいうなら、生物は元来歴史的存在であり、「記憶の消去」はできない。記憶を完全に消去したら細胞自体が消える。いいたいことはわかるが、これは実験家の夢である。初期化とはまさに工学の発想であり、生物学ではない。

 通読して思う。科学者は夢を追うし、それでいい。でもその裏付けはいわゆる事実である。そこでは科学とジャーナリズムは、いわば方法論が同じである。どちらも「事実」を追う。しかし事実だけを述べても、科学にもならず報道にもならない。なぜ著者がこの主題を徹底的に追うのか、それでわかるであろう。同じ昨年に生じたもう一つの事件、朝日新聞誤報事件を考えればいい。

 伝えるべき事実の発見に努力を傾注するか、ウソだろうが本当だろうが、人々が聞きたがることの伝達に励むか。一日中人々がスマホを見ている世界では後者の重みが増す。それが情報化社会で、とりあえずそれを銘記しておくしかないであろう。
    −−「今週の本棚:養老孟司・評 『捏造の科学者−STAP細胞事件』=須田桃子・著」、『毎日新聞』2015年01月25日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150125ddm015070027000c.html



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捏造の科学者 STAP細胞事件
須田 桃子
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