覚え書:「今週の本棚:中島京子・評 『廃墟の零年 1945』=イアン・ブルマ」、『毎日新聞』2015年02月15日(日)付。

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今週の本棚:中島京子・評 『廃墟の零年 1945』=イアン・ブルマ

毎日新聞 2015年02月15日 東京朝刊

 (白水社・3456円)
 ◇戦後70周年に必要不可欠な振り返り作業

 本書は、アジア研究家として定評のあるオランダ人の著者が、2013年に発表したもので、ニューヨーク・タイムズ紙がこの年の「注目すべき書籍」に選出した一冊でもある。

 政治の動きや具体的な事件よりも、体験者の心理に焦点があてられるノンフィクションで、敗戦を喫したドイツ、日本のみならず、ヨーロッパ各地、アメリカ、東南アジア、中国、中東など、世界各地、各国と民族が体験したこの「零年」を、そこに生きた人々の遺(のこ)した記述などを手掛かりに綴(つづ)っていく。読みごたえがあるが、けっして難解ではない、70年前のいくつもの声の記録だ。

 世界中の途方もない数の都市が廃墟(はいきょ)となり、数百万人が飢えの中に投げ出された年、それが1945年だった。焼け跡、闇市、飢餓、伝染病、売春。それらは日本だけの戦後風景ではなかった。爆撃と殺戮(さつりく)と収容所の結果として世界各地にあった。勝った方も負けた方もまだまだ煮えたぎるような憎しみから醒(さ)めてはおらず、けれども、もう、うんざりだ、「二度と再び」繰り返すのはごめんだという嫌気は蔓延(まんえん)していた。灰燼(かいじん)と化した街には、生々しい煙と異臭が立ち上がっている。

 本書の最初の3章は《解放コンプレックス》と括(くく)られる。世界には終戦によって軍国主義ファシズムや、占領、植民地支配からの解放などがもたらされる。それはもちろん「歓喜」とともに迎えられてしかるべきものだが、その「歓喜」の中には複雑な感情が入り交じる。実際、明々白々と敵同士だった者、抑圧に抵抗した者、敵方の権力にすり寄って難を逃れていた者、同じ民族でも敵味方に分かれた者などが、唐突に訪れた平和の中で面と向かい合うとき、純粋な喜びよりは、恥辱、憤怒、恐れ、媚(こ)び、拒絶といった感情が交錯する。敗戦国の女たち、あるいは占領の憂き目にあった国の女たちが解放軍である連合国兵士に向ける賞賛の眼差(まなざ)しには、理屈を超えて性的なものが混入し、負けた男たちは目を伏せ、恥辱には追い打ちがかけられる。

 ヨーロッパでは5月に、アジア・太平洋では8月に戦争は終わる。けれども、その後にも、膨大な数の人間が殺された。不衛生な状態に蔓延する伝染病と「飢餓」によって奪われた命もあるが、「報復」によって命を落とした人々もある。たとえばフランスでは1945年5月以降、約4000人の男女が暴力的な粛清で亡くなったという。興味深いのは「『ドイツ(フィユ・)野郎の女(ド・ボッシュ)』を一番熱心に迫害したのは通常、戦時中に勇敢な行動で際立っていた人びとではなかった」ことだ。「報復とは、危ない時には抵抗しなかったという罪の意識を隠蔽(いんぺい)する一つの手段である」と著者は書く。となれば、誰かが声高に「報復」を叫ぶ時は、その人物がそれまで何をしてきたかに注意すべきなのだろう。

 第2部の《瓦礫(がれき)を片付けて》と括られる3つの章は、おもに戦勝国が敗戦国に科した制裁、非武装化民主化、再教育などに割かれている。民主化と呼ばれる再教育が多くの場合、非民主的な手段や検閲とともに行われたことを著者は見逃さない。そして東京裁判において「勝者の裁きが一層あからさまだったこと。より多くの誤りが犯されたこと」も指摘する。しかし、「零年」の「正義」に対する答えを、著者はこのように書く。「あまりに多くの犯罪者が無罪放免となり、何人かは華々しい経歴を歩むことになる一方で、はるかに罪の軽い人びとが、スケープゴートとして処罰された。しかしながら、完全な正義というものは、たとえもっとも好ましい環境が整っていたとしても、ユートピア的理想に過ぎない。それは実際上と政治上、双方の理由で実行不可能だっただろう」と。たしかに、混乱の中の「正義」に限界はあるだろうが、日本とドイツ、またイタリアでも、1940年代に戦争を起こした人物が戦後比較的早く国家再建に復帰したことの功罪は、あらためて問われるべきかもしれない。

 第3部《二度と再び》によってようやく、読者は「明るく確信に満ちた朝」という希望的なフレーズを目にすることになるのだが、これは本書の中ではたいへん皮肉な使われ方で、基本的に、<希望に満ちて高らかに響く復興の槌(つち)音>といったような紋切り型とは、はっきりと距離を置く冷静でややシニカルな描き方が本書の特徴でもある。それでも、瓦礫と灰燼の中で「二度と再び」と誓ったものの中から、かろうじて「零年」の果実と言えるのが、ヨーロッパの国同士が争うことのないようにという「地域統合」と、日本国憲法の「平和主義」、そして「国際連合」だと著者は書く。戦後70周年の節目の年にあたって、ゆらぐ憲法九条の行く末を考えるときに、一度「零年」を振り返ってみることは必要不可欠の作業に思われる。著者が冒頭に引いたヴァルター・ベンヤミンの「歴史の天使はかくのごとく見えるにちがいない/彼は顔を過去に向けている/われわれには(、、、、、、)事件の連鎖と見えるところに、彼には(、、、)ただ一つの破局が見えていて/その破局は絶え間なく廃墟に廃墟を積み上げ、それを彼の足もとへ投げつけている」という言葉を、いっそう深く噛(か)みしめながら。(三浦元博、軍司泰史訳)
    −−「今週の本棚:中島京子・評 『廃墟の零年 1945』=イアン・ブルマ」、『毎日新聞』2015年02月15日(日)付。

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