覚え書:「特集ワイド:イスラム教圏×欧米社会 『文明の衝突』は本当か」、『毎日新聞』2015年02月16日(月)付。

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特集ワイド:イスラム教圏×欧米社会 「文明の衝突」は本当か
毎日新聞 2015年02月16日 東京夕刊

 仏週刊紙襲撃テロ事件が起き、イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)と米国主導の有志国連合との戦いも激化する中で、たびたび持ち出される言葉がある。「文明の衝突」。確か、2001年の米同時多発テロの際にも飛び交ったはずだ。だが、そこには危険な響きがある。今起きている事態を、そう呼んでいいのか。【内野雅一】

 ◇一括して論じるのは危険/ハンチントンを政治利用

 1月7日の仏週刊紙「シャルリーエブド」襲撃テロの直後、トルコのエルドアン大統領は国内の日刊紙が「シャルリー」の風刺画を転載したことに対し「文明の衝突をあおろうとする者たちが目立つ」と述べ、イスラム社会の感情を逆なでする動きを批判した。一方、シリアで起きたISによる日本人人質事件は最悪の結末を迎え、「やはりイスラムは怖い」との誤解が広がりかねない状況だ。

 日本のメディアは「『文明の衝突』につなげたくない」(山陰中央新報1月26日)と冷静さを保ちつつ、「過激派は(中略)あえて『文明の衝突』を引き起こすことで、伝統的で穏健なイスラム教解釈の下で平和に生きてきた圧倒的多数のイスラム教徒を、自分たちの過激なジハード(聖戦)に引き寄せようとしているのではないか」(産経新聞2月2日)「『文明の衝突』を回避するために欧州は、西洋文明自身に潜む『野蛮さ』と向かい合うことも必要だろう」(毎日新聞2月3日)などの論評を載せた。

 「文明の衝突」とは、米国の国際政治学者サミュエル・ハンチントン(1927−2008年)が世に送り出した歴史観。93年に論文として発表し、96年に同名の本にまとめた。邦訳「文明の衝突」が出たのは98年。21刷を重ね、累計発行部数は17万1000冊の「ロングセラー」(集英社)だ。

 この言葉が21世紀のキーワードとなるまでを振り返っておこう。

 ハンマーやつるはしを手にした市民が東西冷戦の象徴である「ベルリンの壁」をたたき壊した89年11月、世界はイデオロギー対立を乗り越え、新しい時代の扉を開けた。2年後の91年には東の盟主であった旧ソ連がついに崩壊。冷戦の緊張感から解き放たれた世界は高揚感が漂った。ハンチントンの教え子であるフランシス・フクヤマ氏は92年の著書「歴史の終わり」で、明るい世界未来図を描いた。自由主義と民主主義が最終的に勝利したことにより、これからは政治体制を破壊するような戦争やクーデターはなくなる……と。

 しかし、ハンチントンの見方は違った。彼は世界を7ないし8の文明に分け、明るい未来の到来どころか、イデオロギーに代わって、これらの異文明間の衝突が世界の安定を脅かすと予測したのだ。そして、イスラム教圏をもっとも危険とみなした。折から、アルジェリアやエジプトでイスラム過激派によるテロが頻発、さらに欧米に拡大したこともあり、ハンチントンの説は新たな国家間対立の火種を的確に解き明かしたものとして、「文明の衝突」というフレーズとともにメディアなどで頻繁に引用されるようになった。

 当初は「いたずらに民族間の対立をあおる危険な説」と批判も多かった。だが「9・11」がそれらをかき消した。イスラム過激派が乗っ取った民間機がニューヨークの超高層ビルに突っ込む映像は「文明の衝突」を実感させるに十分過ぎた。ブッシュ米大統領(当時)はアフガニスタンイラクへの報復を「十字軍の戦いだ」と表現した(後日、報道官が「文明間の戦いではない」と大統領発言を訂正)。「9・11」以後の一時、ハンチントンは「予言者」に祭り上げられた。

 ◇価値観共存の先に未来

 では、今の状況は「文明の衝突」なのか。

 「それを考えるには、イスラム過激派によるテロの背景を冷静に分析する必要があります」と指摘するのは、同志社大学大学院教授(現代イスラム地域研究)の内藤正典さんだ。「そもそも、90年代にアルジェリアやエジプトでテロが頻発するようになったのは、急速に近代化、西欧化を進める政府が、民衆による草の根的なイスラム復興運動を弾圧したのがきっかけです。イスラム復興運動は、自分たちの暮らす社会をイスラム教によって改革しようというもので、キリスト教に戦いを挑んでいるわけではなかった。しかし、国内で活動しているだけではらちがあかないと考え、腐敗した政府の背後にいる欧米にも矛先を向けるようになった」

 そして、事態は深刻さを増していく。「9・11以降、イスラム過激派が海を越えるグローバル・テロ集団化し、より激しく暴力的になっているのは事実ですが、文明の衝突とひとくくりに断じるべきではありません。それぞれのテロには理由があるのです」

 ハンチントンの本が日本で出版された当時、「いかにもアメリカ的な壮大な『物語』的想像力」と批判的な書評を書いた東京大学教授(ロシア東欧文学・文芸評論)の沼野充義さんにも聞いた。「文明が衝突する、すなわち『イスラム教とキリスト教は理解し合えず対立を引き起こす』というハンチントンの説の裏にあるのは、自分たちが正しく、相手は危険分子だという思考、強者の論理にほかならない。米国的な価値観の押しつけを言葉を変えて言っているにすぎません」

 早稲田大学教授(西洋哲学)の八巻和彦さんは「21世紀の紛争の根本には貧困などの経済的な問題がある。それをカムフラージュしてさらに西欧化を進めるための口実として『文明の衝突』論を利用してきた。イスラム社会を啓蒙(けいもう)してやるのだ、というわけです。中世の十字軍が領地獲得という政治的な誘因があり、そこに宗教的な理由をかぶせたのと似ています」と語る。

 再び内藤さん。「冷戦時と同じように国の外に敵をつくり出し、それに対して強い姿勢を示すことで国民の支持を得る。欧米諸国にとってハンチントンの“シナリオ”は、ある意味、都合がよかった。『文明の衝突』は、政治に利用された概念という側面が強いのです」

 ここまで読み解けば、この言葉を安易に用いるべきでないのは自明だろう。沼野さんは「『文明の衝突』を言い募れば、戦いは不可避だと世の中に受けとめられ、非常に危険です」と懸念する。「異なる価値観を認め合い、共存する先にしか未来はないのですから」

 日本人人質事件で、ISは「お前(日本の首相)は(ISから)8500キロ以上も離れているのに、自ら進んで十字軍に参加した」と言い放った。残虐な彼らもまた「文明の衝突」論を利用しているようだ。

 もし今、ハンチントンが生きていたら、果たして何を語っただろうか。
    −−「特集ワイド:イスラム教圏×欧米社会 『文明の衝突』は本当か」、『毎日新聞』2015年02月16日(月)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/m20150216dde012030002000c.html





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