日記:歴史の編集可能性:ベンヤミン

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歴史の編集可能性

 ベンヤミンはさまざまな角度から映画というメデイアの画期的な新しさをここで確認しているのですが、彼にとって映画が体現していた重要な機能に、編集可能性があります。映画を作る場合、まずはラッシュ・フィルムというものが作成されます。スタジオやロケでの撮影をつうじて、たとえば一〇時間、二〇時間といった長い時間にわたる基礎的な映像が出来上がります。それがラッシュ・フィルムです。そこから、一時間や二時間の映画に仕上げるための編集作業が徹底して行われます。しばしば俳優は自分がいま演じている場面が物語全体のなかでどういう位置を占めているのか、分からない場合が多いと言われます。その場面は編集作業によって、いくらでもその意味を変えうるからです。こう言うこともできます。一本のラッシュ・フィルムには複数の物語が潜在している、と。端的に言えば、一本の同じラッシュ・フィルムから、悲劇的な結末の物語も、ハッピー・エンドに終わる物語も、編集者は作り上げることができのです。

 ベンヤミンが最終的に映画に期待していたのは、この「編集可能性」ではないか、と私は受けとめています。この編集可能性は、私たちが生きている現実の歴史にも適用可能だからです。

 たとえば、日本に投下された二発の原発をどう受けとめるか。戦後の日本は、あれだけの原発による被害にもかかわらず、あるいはだからこそ原子力の平和利用という方向を推進してきました。しかし、今後の私たちの選択によっては、原爆の意味をもう一度変えることも可能です。さらには、日本の敗戦それ自体をどう受けとめるか。これも論者によって大きく異なります。事実としての被害は同じでも、その意味は後世の態度によって大きく異なります。逆に言うと、いまを生きる私たちは、過去の出来事やひとびとの行為に対してどのような意味をあたえるか、という大事な責任を負っています。ベンヤミンの「ゲーテの『親和力』」という論文の結びにはこうあります。「希望なきひとびとのためにのみ、希望は私たちに与えられている」。とても有名な一節ですが。この言葉も、歴史の編集可能性という文脈で読むことが可能だと思います。

 このベンヤミンの論考は映画論として画期的なものですから、ポストモダン的な立場のメディア論において、先駆的な業績としてしばしば参照されています。しかしその場合、ベンヤミンはこれを書くことで、映画という新しいメディアをファシズムの手に委ねるのではなく、プロレタリアートの闘いの武器として確保することをめざしていた、という根本のところが黙殺されがちです、この論考の結びは以下のとおりです。

 人類の自己疎外の進行は、人類が自分自身の全滅を第一級の美的享楽として体験するほどになっている。これがファシズムが進めている政治の耽美主義化の実情である。このファシズムに愛してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ。
    −−細見和之フランクフルト学派 ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』中公新書、2014年、71ー73頁。

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