覚え書:「今週の本棚:内田麻理香・評 『柑橘類と文明』=ヘレナ・アトレー著」、『毎日新聞』2015年05月24日(日)付。

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今週の本棚:内田麻理香・評 『柑橘類と文明』=ヘレナ・アトレー著
毎日新聞 2015年05月24日 東京朝刊

 (築地書館・2916円)

 ◇食欲や買い物、旅の欲求を刺激

 約一二〇〇年前、欧州に柑橘(かんきつ)類は三種しかなかったという。それが、人々に愛され、ともに生活することで、今はオレンジだけでも四〇〇〇種を数えることになった。柑橘類であるミカン属の種は、異種間でも自家受粉による交配や、接ぎ木などによって増え続け、分類学の専門家を悩ませるくらい、多様で不安定なのだ。本書は、柑橘類の自由奔放さを描いた一冊だ。

 イタリアの柑橘類に魅せられた著者の紀行文をベースとしながら、歴史・経済・博物学・料理など、さまざまな要素が詰め込まれている。舞台となる土地も時代も、めまぐるしく駆け巡る。シチリア島からガルダ湖畔まで南北へ、最初の柑橘類が持ち込まれた一世紀からルネッサンス時代、そして現代という今昔へ。迷子になりそうだが、私たちと馴染(なじ)み深いレモンやオレンジの別の顔を次々と知ることができるので、好奇心は尽きない。

 イタリアの柑橘類と聞くと、「地中海の青さと、緑色の葉に囲まれた黄金色の実」というような清々(すがすが)しいイメージを連想していた。しかしその予想は、シチリア島のマフィアの話を読むとあっさり崩れ去る。シチリア島の柑橘類は、マフィアが勢力を拡大する土壌となり、世界各地を暴力で支配する手助けをしたのだ。明るく快活に見えた人物の、訳ありの過去を垣間見てしまったように思える。「オレンジやレモンの花の芳香が、まるで屍(しかばね)の匂いのように感じられるようになる」と書かれているが、それも納得。今までの柑橘類に対する眼差(まなざ)しが一変する。

 シチリア島はブラッドオレンジの産地としても知られている。マフィアの話の続きで読むと、ただごとではない話かと身構えてしまうが、そうではない。ブラッドオレンジの名前の由来となった果肉の赤さは、アントシアニンという色素に由来する。オレンジがアントシアニンを含むためには、果実が熟す季節の日中と夜間の気温差が一〇度以上ある場合に限られるという。シチリア島は日中の寒暖差があるため、他の地域と比較して安定してブラッドオレンジを供給できる産地となっているのだ。ブラッドオレンジは優れた健康効果を持つため、赤い色素の原因となる遺伝子が他のオレンジでも活性化するための研究も進められている。

 このあたりでブラッドオレンジジュースが飲みたくなってくるが、手近で入手できないため、普通のオレンジジュースで我慢することにした。本文中で、柑橘類を使ったお菓子や料理などが頻繁に登場する。中には、ご丁寧にレシピまで掲載されている。オレンジピールとレモンピールのタリオリーニ(パスタ)など、すばらしく美味(おい)しそうだ。惜しむらくは、写真が掲載されていない点だろうか。

 料理の写真だけでなく、見慣れない柑橘類の写真があったら良かったのにと思う。できれば、各々の柑橘類の関係の図なども欲しかった……と、そんな贅沢(ぜいたく)を考えるのも、本書から色とりどりの情報を受け取り、わがままになるからだろう。

 食欲だけではない。買い物をしたい欲、旅をしたい欲も刺激される。ここに登場するベルガモット精油を使った香りが欲しい。フェラガモの創業者の娘でデザイナーであったフィアマ・フェラガモが、シチリアの侯爵家に嫁いでから作り始めたというマーマレードを買いたい。そして、巻末の「見どころ」に登場するイタリアの各地を回りたい。いや、そこまでは無理でも、せめて過去に行った地を、柑橘類という視点で見直したい。

 読んでいると落ち着かなくなる本ではあるが、たまには幸せな欲にまみれるのも悪くない。(三木直子訳)
    −−「今週の本棚:内田麻理香・評 『柑橘類と文明』=ヘレナ・アトレー著」、『毎日新聞』2015年05月24日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150524ddm015070015000c.html



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