覚え書:「今週の本棚:堀江敏幸・評 『風の吹き抜ける部屋』=小島信夫・著」、『毎日新聞』2015年06月07日(日)付。

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今週の本棚:堀江敏幸・評 『風の吹き抜ける部屋』=小島信夫・著
毎日新聞 2015年06月07日 東京朝刊

 (幻戯書房・4644円)

 ◇小島文学の核心形成する二重構造

 小島信夫は郷里の岐阜市について、微妙に屈折した言い方で、不満とも諦めともつかない、場合によっては愛とも受け取られそうな心情を公にしてきた。長良川下流域には、輪中(わじゅう)がある。輪中とは「共存共栄する上で、人間は決して善良ではないということを熟慮のうえに工夫された、最高の仕組み」だが、これがうまく機能せずに「自分さえよければいいという行為が、大写しに拡大されて」、自分たちは幼い頃から「こすい」性格だと思い込まされてきた節があるというのだ。しかし彼が育ったのはデルタ地帯からはほど遠い、鵜(う)舟の浮かぶあたりだった。岐阜市だからといって西濃出身とくくられることには、だから異和感がある。居心地が悪い。同時にそれを認める気持ちもあって、この二重構造が、小島信夫の文学の核心を形づくっている。

 本書には、単行本未収録の散文が多数まとめられている。学生時代や戦時の思い出、書評、追悼、人物評、自作解説など、大雑把(おおざっぱ)にジャンル分けするのは可能だが、言葉の色合いや肌触りは小説作品とほとんど変わりがなく、ものごとのどんなところに着目し、どう語るのか、姿勢は一貫している。小島信夫は輪中を外から眺めながら中に入り込み、いつのまにか水門を破って堰(せき)を壊す。読者の胃の腑(ふ)には、芭蕉が詠んだ「おもしろうてやがて悲しき」なにかが残されるのだが、それを鵜のように吐き出すことはできない。

 集中、最も古いのは一九五七年の「やつれた上等兵」と題された一篇だ。小島信夫は昭和十七年、岐阜の部隊に入隊し、蒙疆(もうきょう)の大同に「連れて行かれ」たあと、「山東省の部隊といっしょに滄県、塩山と移動し、そのあたりをイワユル討伐してあるいた」。昭和十九年、暗号兵となって北京に転属になるのだが、属していた師団はその夏フィリピン戦線にまわされ、ほぼ壊滅した。初出では軍隊時代の写真が添えられていたらしい。それについての短いコメントが、すでに一篇の小説になっている。写真のなかの彼は、なぜか地下足袋を履いていた。

 「大同へ帰った直後なら、引越しをしていて重い金庫で親指をくだいたあとだ。ずいぶんヤツレた顔をしている。泣き出しそうでもある。おせじを使ってもいるともとれる。うつしてくれたのは、好人物の軍犬調練係りの上等兵であった。この人の前でどうしてこんな表情をしていたのか、分らない。ただ足がいたかっただけかも知れない」

 文章は、ここでぷつんと途切れたように終わる。自虐的物言いと解釈の投げだしの間合い。自分という他者の内側に身を置いて外部をじっと観察することと、登場人物に自分を投影し、他人になった自分の姿を想像している自分に恋着することの危ういバランスが、実在の人物に虚構の力を付与する。

 たとえば森敦の、『われ逝くもののごとく』について語りながら、魚行商をしながら娘を育てているお玉という女が親方に抱いてもらう場面に注目し、「男である私がどういうわけかこの親方よりも抱かれる彼女の方になる」と述べている。描写の元が「エロチック小説」にあると著者からほのめかされても、興ざめするどころか、それに先立つ「何だかこれはきわめて貴重な場面であり、貴重な事件であるような気がする」との感想を引き下げはしない。逆に「抱かれる」身体感覚を、いっそう愛(いと)しいものとして受け止めるのだ。

 人物評はそのまま小説論に拡大され、小説論のなかで引用される本は登場人物に変化する。部分が全体になり、全体が部分にめり込む。他愛のないエピソードが、すべてに影響を及ぼす。中村光夫の追悼で触れられた、いっしょに旧ソ連を旅したときの逸話が忘れがたい。キエフの屋台で彼らは西瓜(すいか)を買う。

 「中村さんがいいだされたようにおぼえている。それを私はホテルまで持たせてもらった。中村さんは恐縮されている様子だったが、私は自分が先輩の中村さんに尽くすことの出来そうな唯一のことだと思っていたような気がする」

 三度繰り返される「中村さん」と抱えた西瓜の重み、そして「唯一のこと」というどこか攻撃的な思い込みの強さが、おなじ旅行に触れたべつの一文の塀を突き破り、「モスクワのホテルでは、中村さんは巌谷さんと同じ部屋だったが、あるときのぞくと、中村さんは縄とびの最中であった」という突飛な情景を呼び寄せる。

 小島信夫の散文には世間話がどこにもない。あるのはただ「世界を幾層にも開く性質の」文学論だけだ。受け身の論はそのまま「ナゾに共鳴し、なるべくそのまま残しておくということ、解読することで、解明できたと思わないようにすること」だけを目指す小説の実践になっている。この構造のねじれは、先に触れた輪中の存在とも深い関係があるだろう。小島信夫が用意するのは、枠をはみ出すための「ただ足がいたかっただけかもしれない」言葉である。それがここに、恍惚(こうこつ)とした表情でずらりとならんでいる。
    −−「今週の本棚:堀江敏幸・評 『風の吹き抜ける部屋』=小島信夫・著」、『毎日新聞』2015年06月07日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150607ddm015070026000c.html



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