覚え書:「インタビュー:台湾で日本軍にいた私 台湾の実業家・辜寛敏さん」、『朝日新聞』2015年06月04日(木)付。

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インタビュー:台湾で日本軍にいた私 台湾の実業家・辜寛敏さん
2015年06月04日

(写真キャプション)「立派な台湾人であれという父の思いと、立派な日本人であれという母の思いを感じて、私は育ちました」=熊谷俊之氏撮影

 第2次世界大戦が終わった1945年までの50年間、日本の植民地だった台湾。戦争末期、旧日本軍に従軍した人たちもいた。自民党などの日本の政治家とパイプを持つ、実業家の辜寛敏さんもその一人だ。自らの従軍体験に基づいて、靖国神社からA級戦犯分祀(ぶんし)すべきだという思いを強めている。

 《辜氏は日本統治下の台湾で「5大家族」と呼ばれた名家の出身。第2次大戦後は、中国大陸からやって来た国民党が独裁統治した台湾を離れ、日本に30年間在住。事業の傍ら「台湾独立運動」にかかわり、今は独立志向の最大野党・民進党の有力支援者だ。インタビューは日本語で行った。》

 ――戦時中、旧日本軍に従軍されたそうですね。

 「私が軍におったのは終戦の前の1年足らず。米軍が、フィリピンの次は台湾、さらにその次は沖縄か、日本本土に進攻すると考えられていた。兵隊の数を増やそうと言うことでしょう。旧制の台北高等学校、台北高等商業学校の学生が徴兵された。私は台北高の高等科2年生だった」

 「装備はお粗末だった。武器は学校の軍事訓練に使っていた三八式歩兵銃だ。それも数が足りない。私は第1分隊長をやりましたけど、鉄砲の数が足りなかったからゴボウ剣だけ持っていた」

 ――三八式は明治38年ごろから旧日本軍で使用された小銃ですね。ゴボウ剣、とは?

 「銃の先につける銃剣をゴボウ剣って言ったんだ」

 ――軍ではどんな任務を。

 「今から考えるとね、あんな装備と訓練、それに学生出身ということで、とても戦力になることはできなかったと思うんだ。だけどなにしろ、なんとか台北市の防衛に現地の学生を使おうと言うことだったんでしょうね」

 「米軍が上陸して台北に進攻するとすれば、台北の北側の海から川沿いに来る道と、山を越えて来る道が考えられた。山の方に配置された我々は、予想された山の中の道の近くに、たこつぼを作って、横穴を掘る。やったことはこういうことだけですよ」

 ――たこつぼ

 「一人の兵隊が三つばかり地面に穴を掘るんです。たこを捕る時に使うたこつぼのようなものを作って体をひそめる。米軍に攻撃されて、ひとつが駄目になったら、別のに移れ、と。横穴は、米軍が上陸前に行う艦砲射撃から退避するためだった」

 「当時、食料の準備は3日から5日分。米軍がもし上陸してきたら、台北まで食料を受け取りに行くことは不可能だった。食料の面から言っても、持ちこたえられない。やっていたことは全く無駄だったね。兵舎もなんもなかったんだ。我々が木を切って、柱を立てて、屋根を葺(ふ)いてと。資源も何もなかった。だけど当時の若い人の気持ちというのは、何しろ国のためということでね、おかしいなと思ったのは後になってのこと」

 「それでも我々はいくらか考えのある若い人だったな。この戦争は本当に勝てるのかという疑問はみんな持っていた。ただ、それを口にするとか、行動にあらわすということはなかったね」

 ――当時の台北高校では台湾人学生はどれくらいいたのですか。

 「1割5分から2割くらい。もともとは台湾籍の人間は投票権がないかわりに兵役の義務はなかった。だが、戦争末期にはそんなことは言っておられなくなった。台湾の人からも、これは不合理だという不満はなかった。日本人、台湾人の区別なく、愛国心に満ちていたと思うなあ。当時はまだ台湾人差別はあったけれど、日本の統治があと10年、15年続いたら、台湾の若者は気持ちの面でも完全に日本人になったと思いますよ」

   ■     ■

 ――実際には、米軍は台湾に上陸してきませんでした。

 「米軍は沖縄に上陸した。台湾にいた我々としては正直、ほっとした。必ず台湾に上陸するだろうと言われていた。台湾を飛ばして沖縄に行ったということは意外でしたな。台湾が攻められたら、私はここにいなかったでしょうな」

 「戦後70年ということで、戦争当時のいろんな記録映画を見た。沖縄戦の映画を見ていると、米軍が上陸して、横穴に向かって火炎放射器を放射したんですね。表にいる人はもちろん、奥の人も犠牲になった。それを見て、米軍が台湾に上陸したら我々はあれと同じだったんじゃないかとつくづく思いましたね。ショックだった」

 ――掘った穴の中で、自分も焼き殺されていたかもしれないと。

 「沖縄戦の前に、敗戦は確定的だった。日本内地は無差別な空襲を受けて、それに対して抵抗のしようがなかったんですよ。それなのに軍は、『本土決戦』などと言って国民を駆り立てていった」

 「無駄に国民の命を犠牲にすることは軍にしても国家にしても、許されないことだと思う。戦局は変えられないと分かっていながら、なお犠牲を強いた軍や政治のあり方は、大きな間違いだった。そういうことから、私が申し上げたいことは、靖国神社A級戦犯分祀すべきだということです」

 「戦争を指導したA級戦犯靖国にまつられている現状。これは日本自体が解決しなければいけないことだと思うんです。日本は戦争の責任がこの人たちにあることを認めて、靖国から分ける。しかし、分祀のあとは、国のために命を亡くした人に我々が敬意を表することにクレームをつけてくれるな、と。中国、韓国とそういう話し合いにもっていかなきゃいかんと思うんだな」

 ――戦争指導者には国民に犠牲を強いた責任があると、考えているわけですね。

 「そうです。その責任を日本国民として、日本国として、しっかり考えるべきだと。ドイツのメルケル首相が来日して、『ドイツが欧州で和解を進められたのは過去ときちんと向き合ったから』と語りましたね。先の戦争で起こした罪は積極的に認めて、そのうえで平和や国際協力に貢献していく道を、日本の社会に示したかったんじゃないかと思う」

 「愛国心は日本のすばらしい特徴です。それは第2次大戦前も後も同じだと思う。だが、A級戦犯は(靖国神社から)はっきり分けなければアカンと思うんですわ。中国の指導者も考えるべきだ。歴史解釈だとか何とかいう気持ちは分からないでもないが、それだけでは問題の解決にならない」

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 ――安倍晋三首相の安全保障政策に対しては、日頃から支持を口にされていますね。

 「積極的平和主義はいいんですよ。台湾への影響も大きい。地域の安全保障を考えた場合、台湾は地理的に非常に重要で、何か変化が起こると北東アジア全体が大きな影響を受けてしまう。日本は中国のことを考えて台湾に触れないようにしてきたけど、最近は台湾の重要性を分かってくれているように思う」

 「一方で、安倍さんは、『侵略の定義は定まっていない』と言いましたな。ああいうことは言わなくてもいいことじゃないですか。日本に何かプラスになるんですか。侵略と認めたから日本がどうこうなるという話ではないでしょう。自民党の偉い人に『日中戦争はどういう理由でやったのか』と聞いたことがある。答えられなかった。別に、当時の中国が日本の脅威だったから戦争が起こったわけじゃないんですよ」

 ――なぜ歴史問題について発言しようと思ったのですか。

 「私の父の辜顕栄(1866〜1937)は日本の台湾統治に非常に協力して、貴族院議員にもなった。(1937年に勃発した)日中戦争前の状況を見て、戦争になったら中国の人間がどれだけ犠牲になるかと、東京と(当時、中華民国の首都があった)南京を行ったり来たりして戦争回避に動いた。結局、東京で過労で死んだんですけどね。ああいうときにああいう人が、両国の間を取り持とうとしたというのは悪くなかった」

 「日本は戦後、平和国家としての務めを果たしてきた。台湾の将来の安定を考えても、残された中国や韓国との歴史の問題をぜひ解決してもらいたい」

 「いま88歳です。2年、3年と戦場にいたような人はもう90歳過ぎ。従軍した体験を、身をもって語ることができる人はどんどん少なくなってきているわけだ。日本でも少なくなっているけど、台湾人はもっともっと少ない。だからこそ、この話をさせてもらおうと思ったんだ」

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 クーコワンミン 1926年生まれ。水産業などの事業の傍ら、シンクタンク「新台湾国策智庫」を主宰。2008年、民進党の主席選挙に立候補して敗れた。

 ■取材を終えて

 辜寛敏氏の母親は東京下町生まれの日本人だ。それでも、「靖国」という日本人の心の奥底にかかわる問題について、外国人が発言して良いのかという思いもあったという。辜氏の安全保障をめぐる考え方は日本の保守派の主張に近く、朝日新聞の論調について「理想的すぎる」と疑問を呈する人でもある。だから、A級戦犯分祀を求める意見は少し意外だったが、日本に愛着を感じるからこその発言だと感じた。

 (台北支局長・鵜飼啓)
    −−「インタビュー:台湾で日本軍にいた私 台湾の実業家・辜寛敏さん」、『朝日新聞』2015年06月04日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S11789801.html





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