覚え書:「今週の本棚:渡辺保・評 『ニッポン・アートの躍動』=高階秀爾・著」、『毎日新聞』2015年06月14日(日)付。

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今週の本棚:渡辺保・評 『ニッポン・アートの躍動』=高階秀爾・著
毎日新聞 2015年06月14日 東京朝刊
 
 (講談社・2916円)

 ◇作品精神の深みに誘う三つの要素

 楽しく、かつ刺激的な本。

 ここには評論家高階秀爾(たかしなしゅうじ)が選んだ、現代日本の気鋭のアーティストたち三十六人の、絵画、彫刻、オブジェ、写真などが並んでいる。その作品の独創性は何度見ても飽きない。

 どの作品も面白いが、たとえば中岡真珠美の「Floating Feeling」は、白と青、濃淡の朱色で不思議な形象が描かれている。それは見方によっては風景のようにも見え、巧妙に組み合わされた色と形のつくる抽象的な「詩」のようにも見える。すなわち作品自体が面白い。しかしこの本にはさらなる仕掛けがあって、その仕掛けによって単なる画集でも写真集でもない本になっている。すなわち一つの作品についてそれぞれ三つの部分がある。一つはむろん原画。作品そのものの全体である。もう一つはそれについての選者高階秀爾の文章である。その文章は作品を分析するだけではなくこの作品を言語の世界へと誘って一つの文学である。たとえばこの作品ならば、いかに画面を構成する「白」がつくられ、「凜(りん)とした詩情を漂わせる『白』の世界」をつくっているか、それについての深い洞察がある。それを読めば、原画を楽しむ目の喜びは、たちまち知的な楽しみに変化し、さらにもう一度原画を見返せば、さらに精神の深みへと誘われる。読者は作品と批評の交響曲を聞くことになる。

 しかし仕掛けはこれに留(とど)まらない。三番目の楽しみがある。

 この本は毎月講談社のPR誌『本』の表紙を飾った作品集である。表紙にはそっくり原画が使われたわけではない。当然表紙としてトリミングされてデザインになった。原画、批評の次にはそのデザインが来る。これが独特で面白い。

 たとえば傍嶋(そばじま)崇の「オモイオモイオモウ」。原画を見れば、抽象化されてはいるがあきらかに母親が子供を抱いている絵である。題名の「オモイ」は母親の子供が「重い」という実感であり、その幸福から「オモウ」−−子供を「思う」愛情の深さをリアルに実感させる。

 ところがデザイン化された絵は、原画の中央部を大胆に切り取っている。したがって原画の親子像は全く消えて、白、黒、朱、黄、紺の色の模様にしか見えない。そこには原画のもつ意味を超えて、色彩と形態のつくるハーモニーだけになって、原画のもつ感覚的な本質が明確になっている。

 以上三つの部分。原画、批評、そしてデザインの三つの比較から成り立つところにこの本の面白さがあり、独特の世界を展開して一つの作品になっている。

 読者はこの三つの部分を自由に渡り歩いて楽しみ、その三者の関係によってイメージをふくらませる。この関係こそがこの本の特異な存在理由である。

 たとえば糸井潤の「Cantos Familia」。北欧フィンランドの深い森の奥に、糸井潤のカメラは白夜の太陽をとらえている。高階秀爾はこの作品を「光と闇のこのせめぎ合い」といい、さらに「光がなければ何も見えない」のに人間は「光そのものは見ることができない」という「光」についての重要な指摘をしている。そこでデザイン化された写真を見ると、原画の森の周囲の天空は消えて、ただ木々の間に薄く光る光の影だけが見える。そこには「見ることができない」はずの光をとらえる視点があり、批評の論理が明確に実証されている。

 さらに高階秀爾は、写真がその歴史において「光の芸術」であることを語り、人間がものを見るとはなにかを問う。それはもはや一枚の写真をこえて、人間の思想に至り、その精神の深部に至る。北欧フィンランドの白夜の太陽は一つの思想の原点を照らしている。
    −−「今週の本棚:渡辺保・評 『ニッポン・アートの躍動』=高階秀爾・著」、『毎日新聞』2015年06月14日(日)付。

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ニッポン・アートの躍動
高階 秀爾
講談社
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