覚え書:「今週の本棚:鹿島茂・評 『クリミア戦争 上・下』=オーランドー・ファイジズ著」、『毎日新聞』2015年07月12日(日)付。

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今週の本棚:鹿島茂・評 『クリミア戦争 上・下』=オーランドー・ファイジズ著
毎日新聞 2015年07月12日 東京朝刊
 
 (白水社・各3888円)

 ◇決定的役割演じた国民世論

 クリミア戦争は「近代戦の最初の例」であり、戦死者は両軍合わせて七十五万人に及ぶ。ナイチンゲール登場のエピソードでも知られるように悲惨さも前代未聞の規模で、「歴史の大きな転換点」であったが、二回の世界大戦の陰に霞(かす)んでいまや「忘れられた戦争」と化している。しかし、ロシアによるウクライナ領クリミアの併合、冷戦崩壊後のコソボ民族浄化、さらにはギリシャ危機へのロシアの対応など、黒海バルカン半島の紛争の遠因を探っていくとこのクリミア戦争に行き着くことが少なくない。では、いったいクリミア戦争とはどんな戦争であったのか?

 元はといえばイェルサレム聖墳墓教会の管理権などを巡るカトリック教会とギリシャ正教会の対立に乗じてロシア皇帝ニコライ一世がオスマン帝国領内の正教教会の保護権を要求して一八五三年六月に戦端が切られた「宗教戦争」であった。ニコライはオスマン帝国領のモルダヴィア公国とワラキア公国に侵攻すれば、領内の正教徒が蜂起し、オスマン帝国は瓦解(がかい)すると予想していたのだ。「皇帝を動かしていたのは自尊心と慢心であり、ロシアの力量と威信についての過信であり、そして何よりも神から与えられた世界史的使命を完遂するために宗教戦争を戦っているという信念だった」

 これに反発したのがイギリスである。イギリスは戦争の影響がインドに及ぶのを恐れ、大部隊をドナウ・デルタに送り込んだ。いっぽう英仏協調を外交戦略とするナポレオン三世はイギリスを凌(しの)ぐ大軍を戦地に派遣。こうしてロシア・オスマン戦争は英仏対ロシアの欧州戦争へと発展していったのである。

 しかし、開戦初期は戦わずに死者だけが増える「戦病死の戦争」であった。ドナウ・デルタに侵攻したロシア軍二十一万人のうち九万人がコレラチフスに罹患(りかん)し、英仏連合軍もコレラの蔓延(まんえん)で多くの犠牲者を出した。しかも、オーストリアの介入を恐れたニコライ一世が撤退命令を出したため、戦争は早期に終わるかに思われた。

 ところがここに意外な伏兵が現れる。イギリスのジャーナリズムである。「好戦的となった世論は、勝利の象徴としてセヴァストポリを攻略し、黒海艦隊を撃滅することを求めていた」。まずイギリス政府が煽(あお)られ、フランスも追随した結果、戦場はクリミア半島セヴァストポリに移動、空前の要塞(ようさい)攻防戦が始まったが、両軍とも兵站(へいたん)が機能せず、軍司令部も無能だったため兵士はかつてないような悲惨な戦いを強いられた。このときロシア軍の一将校として戦闘に立ち会って『セヴァストポリ物語』を書いたのが後の文豪トルストイであるが、歴史はもう一人の英雄を登場させる。戦場ジャーナリズムの批判的報道で戦場の悲惨な状況を知ったフローレンス・ナイチンゲールが自力で看護団を組織して獅子奮迅の活躍を開始したのである。

 「戦時中に軍事当局がこれほどまでに世論の批判にさらされるという事態は、これまでの戦争では考えられないことだった。クリミア戦争は歴史上初めて国民の世論が決定的な役割を演じた戦争だった」

 セヴァストポリ陥落でも降伏を拒否したロシアもオーストリアから最後通牒(つうちょう)を突き付けられ調停に同意。かくてクリミア戦争は終わったが、ロシアはオーストリアに強い恨みを抱き、また、ロシア国内では近代化を目指す西欧派に対抗して汎スラブ主義勢力が台頭。オスマン帝国領内の親ロシア派と結びついて、ここに第一次大戦の伏線が引かれることになる。今日的観点からクリミア戦争を詳細に分析した力作である。(染谷徹訳)
    −−「今週の本棚:鹿島茂・評 『クリミア戦争 上・下』=オーランドー・ファイジズ著」、『毎日新聞』2015年07月12日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150712ddm015070029000c.html



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