覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『歴史言語学の方法−ギリシア語史とその周辺』=松本克己・著」、『毎日新聞』2015年07月26日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『歴史言語学の方法−ギリシア語史とその周辺』=松本克己・著
毎日新聞 2015年07月26日 東京朝刊
 
 (三省堂・6372円)

 ◇松本言語学の誕生知る貴重な一冊

 言語学、遺伝学、考古学の素人に評することなどできそうもない専門書だが、同じ著者が今世紀に入ってから刊行してきた『世界言語への視座』、『世界言語のなかの日本語』、『世界言語の人称代名詞とその系譜』という一連の研究の掉尾(ちょうび)を飾る本書の刊行を機に、著者の仕事のあらましを紹介したい誘惑にはうち勝ちがたい。それほど著者の仕事には讃嘆(さんたん)を禁じえないのである。

 掲げた三冊の本の副題を順に並べれば「歴史言語学と言語類型論」、「日本語系統論の新たな地平」、「人類言語史5万年の足跡」。いうまでもなく、現生人類が誕生して以後、世界の言語がどのように展開してきたか、そのなかで日本語はどのような位置を占めるか、詳細に論じているのだ。

 一九八七年、遺伝学者ウィルソンらが雑誌『ネイチャー』に現生人類の起源はおよそ二十万年前のアフリカに遡(さかのぼ)るという説を発表し、大きな話題を呼んだ。女系にしか伝わらないミトコンドリアDNAを調べれば現生人類の共通女系祖先に辿(たど)り着くはずだとし、それを特定してみせたのである。「ミトコンドリア・イヴ」と呼ばれるこの仮説は、以後、進化人類学や先史考古学において支持され、ほぼ5万年前から始まったとされる現生人類のアフリカからユーラシア、オーストラリア、アメリカへの適応拡散の過程が具体的に探求されるようになった。

 また、二〇〇〇年には遺伝学者キャヴァリ=スフォルツァらのグループが男系にしか伝わらないY染色体を用いて同じような研究をし、この説を補強した。いわゆる「Y染色体アダム」である。これらは放射性炭素年代測定に匹敵する発見であって、考古学者や人類学者を大いに刺激した。遺伝学と言語学は変化を測る術(すべ)として似ている。ソ連崩壊以後、ロシアと欧米の考古学者の交流が活発になり東欧圏の発掘にも拍車がかかったが、考古学者が言語学を武器に原印欧語族の発生地を特定するまでにいたっている。先史時代の光景はいまや一変しつつある。

 著者の仕事は、これら進化遺伝学、先史考古学の急速な展開に対する言語学におけるもっとも鋭敏、的確な反応である。歴史言語学すなわちかつての比較言語学構造主義が思想界を席巻し、ソシュールチョムスキーらの言語学が一世を風靡(ふうび)するにいたって一時は凋落(ちょうらく)したかに見えたがいまや息を吹き返した。比較言語学の呼称が薄れたのはそこに印欧語中心の響きがあったからだろう。かつて日本語はウラル・アルタイ語のひとつと見なされていたが、ウラル・アルタイ語とは印欧語のたんなる裏返しにすぎなかった。日本語はむしろ孤立語なのだが、しかしじつは孤立語のほうに言語の古形が残っていたのである。最新の遺伝学を参照しながら眺め返せば、大きく「太平洋沿岸言語圏」とそのひとつ「環日本海諸語」(日本語、朝鮮語アイヌ語、ギリヤーク語)の姿が見えてくる。印欧語の研究が目覚ましかったのはそれが新しい言語だったからにすぎない。こうして、人称代名詞の遺伝子的背景を探ることによって5万年のタイム・スケールで人類言語史を構想する大著『世界言語の人称代名詞とその系譜』が完成した。

 一般読者として興味深いのは、たとえば『世界言語のなかの日本語』の最終章「太平洋沿岸言語圏の先史を探る」で、甲骨文字から漢字が成立してゆく背景に、「貝」を基盤とする太平洋沿岸言語圏が「羊」を基盤とする内陸遊牧民言語圏によって制圧されてゆくドラマを見ているところなど。「漢語と呼ばれる言語は、そのクレオール的な起源とその後に行われた種々雑多な話者集団の吸収・合併に加え、おそらく沿岸言語圏から発祥した漢字という表意文字システムをほとんど唯一の支えとしてきた」。中国語はクレオールすなわち新しい言語だったのであり、太平洋沿岸言語圏に属す日本語のほうがはるかに古かったというのだ。説得力がある。

 漢字へのこのような理解の背後に、「線文字Bは、ギリシア人がギリシア語を写すために、線文字Aを借用・改良した文字形態であり、その手本となった線文字Aは、エーゲ世界の先住民だったミノア人が彼らの母語である『ミノア語』を記録するために創り出した文字体系にほかならなかった」という印欧語研究の経験が潜んでいる。著者の原点は「ギリシア語史とその周辺」にあったのであり、それを副題として今回刊行された『歴史言語学の方法』はしたがってその出発の記録にほかならない。ソシュールチョムスキーに対する評価を記した書評なども収められており、松本言語学の誕生を知るうえでも貴重な一冊になっている。

 一連の仕事はまさに瞠目(どうもく)すべきだが、しかし賞賛に値するのはその主題にのみあるわけではない。むしろ他の学問の成果を積極的に取り入れ、いっそう広い視野に立って仕事を進めてゆこうとするその方法、その姿勢にこそある。

 なお、著者の公開講座「日本語の系統とその遺伝子的背景」はインターネットの千葉大学のサイトでPDFを簡単に入手できる。一読すれば著作を手に入れたくなるに違いない。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『歴史言語学の方法−ギリシア語史とその周辺』=松本克己・著」、『毎日新聞』2015年07月26日(日)付。

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