覚え書:「論点:戦後70年 私の戦後70年」、『毎日新聞』2015年08月14日(金)付。

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論点:戦後70年 私の戦後70年
毎日新聞 2015年08月14日 東京朝刊

 戦争が終わってから、70年の歳月が過ぎようとしている。「平和」を希求し、一度も戦争に巻き込まれることのなかった日本。だが、その道のりは平たんではなかった。戦争、そして焼け跡の時代を知る2人に「私の戦後70年」を振り返ってもらった。【聞き手・森忠彦】

 ◇信頼、尊敬される国に 小山内美江子、「JHP・学校をつくる会」代表

 横浜の鶴見にあった生家が空襲で焼けたのは1945(昭和20)年4月15日の夜。連日連夜やってきたB29がばらまいた焼夷(しょうい)弾であたりは火に包まれ、私と母、弟は総持寺の墓地の近くを逃げ惑っていました。突然、漆黒の闇が黄色に光り、巨大な何かが落ちてきてごう音とともに爆発しました。近くにいたら命を落としていたでしょう。後でそれが高射砲で被弾したB29だと知りました。

 それから67年がたったある日のこと。知り合いの出版社が出した学徒勤労動員された女子学生の手記を読んで驚きました。その方は当時、宮城の女学校から鶴見の軍需工場に来て兵器を作り、その夜は墜落したB29の近くで命拾いをしたという。つまり、当時、鶴見高等女学校3年生だった私と同じ経験をした二つ年上の方が存命だということがわかったのです。1年後、南三陸の温泉でお食事を一緒にしました。お会いしたのは初めてでしたが、よくまあ、お互いに無事で元気でと。68年前のことがあっという間によみがえりました。

 終戦の日は、その軍需工場で迎えました。何の兵器を作っていたのかも知らされない作業の繰り返しで、正午に重大な放送があるというので工場の中庭に整列させられました。暑い日でね、体が弱かった私はめまいを起こし、木陰で休んでいました。ラジオからは聞き取りにくい音声が流れ、天皇陛下が何をおっしゃっているのかもよくわからないままです。しかし、間もなく男の工員たちが鉄かぶとを放り投げて「負けた」と叫び、虚脱状態で立ちすくんでいたのを覚えています。その夜、バラックの家に戻り、母が電球の覆いを外すと部屋が急に明るくなった。もう飛行機は来ないし、空が静かで。「もう殺されないんだ」「ああ、本当に戦争が終わったんだ」と実感しました。

     ◇    ◇

 新しい憲法(47年施行の日本国憲法)ができた時のことも覚えています。これで親の許可がなくても結婚ができる。表現の自由がある。そして何より二度と戦争に巻き込まれることはない−−。うれしかった。憲法9条は「日本は二度と世界にご迷惑はかけません」という誓いのようなもの。忘れてはなりません。

 その後、脚本家として多くのドラマに携わってきましたが、反響が大きかった作品の一つが79年に始まった「3年B組金八先生」。ちょうど中学生の万引きや家出などが新聞の話題になっていたころで、周辺で聞いた等身大の学校の出来事をテーマにしました。いじめや不登校など、当時からあった教育問題は、今も大きくは変わっていないですね。

 ドラマの中で、金八先生に荒川の土手で生徒たちに「海の向こうには本物の戦争で傷ついている同じ年ごろの少年少女がいる」と言わせたのも、当時、実際に起きていた海外の戦争を多感な15歳に知ってほしかったからです。79年はソ連アフガニスタン侵攻やイラン革命が起き、カンボジアではポル・ポト派の虐殺が続いていました。受験戦争ではない本当の戦争が海外で実際に起きているということを伝えたかったのです。

     ◇    ◇

 カンボジアとの縁はその後、長く深いものとなりました。92年に初めて訪れ、この国を復興するにはまずは教育が必要で、そのためには学校を整備しようと。93年に第1校が完成し、これまでに327校ができました。日本からは毎年、大学生を中心にのべ2000人近い人たちが現地に行き、学校整備だけでなく、教師などの人材育成なども行っています。最初は頼りなげな学生ですが、見違えるようにたくましくなって帰ってきます。国際貢献に必要なのは人と人とのつながりなんです。

 最近、政府は「積極的平和外交」という名のもと、自衛隊に武器を持たせようとしています。冗談じゃない。日本はこの70年間、世界から「戦争で人を殺さない憲法を持っている国」という信頼と尊敬を勝ち取ってきたんです。武器なんかなくても、それができるんです。日本人はもっと、世界が日本をどう見ているかを真剣に考えないといけません。

 今日(14日)、1年3カ月ぶりにカンボジアに出発します。ブランコのペンキを塗って、カレーを作って。ごみの山で働いていたような子どもたちが「バーバ、バーバ」と待っていてくれる。この子たちの日本への期待を裏切ってはいけません。

 ◇憲法9条は世界の宝 ドナルド・キーン、コロンビア大名誉教授


 初めて日本の土を踏んだのは1945(昭和20)年の12月。終戦から4カ月後でした。上海から軍用機で厚木基地(神奈川県)に着き、ジープで都心に入るにつれ建物の数は減り、焼け野原が広がっていました。

 しかし、人々の印象はどこか明るかった。1週間の滞在でしたが、どこかの家に寄った時、お茶とサツマイモが出てきました。見ず知らずの米兵を恐れることもなく、ごく自然に、私をもてなしてくれたのを覚えています。戦争で家を焼かれ、仕事も食べ物も十分にない状態でしたが、あのころは戦争が終わった喜びが広がっていました。旧軍部は別だったでしょうが、国民はそれを祝うかのような雰囲気があったのです。

 恐らく当時の日本人は、戦争のずっと前から自由を経験していたからだと思います。谷崎潤一郎永井荷風は戦争によって書きたいことも書けず、発表もできず、非常に悔しい思いをしたそうです。これは多くの日本人がいろんなところで感じていたことです。ですから敗戦のショックよりも戦争が終わって自由が戻ってきたことがこの上ない喜びだったのでしょう。進駐軍によって初めて日本に民主主義や自由の精神が持ち込まれたように言われますが、私は日本には戦前からそうした社会があったと思います。それをすべて軍部が奪ったのが、戦争でした。

     ◇    ◇

 私は学生時代に「源氏物語」と出合い、海軍では日本語の専門将校として日本兵捕虜の聞き取りをしたり、書類や日記の翻訳をしたりするのが仕事でした。捕虜との会話は楽しく、友達のような関係になりました。何とかしてこの国の人たちを助けたいという思いでした。

 同じ気持ちを持った米国人はほかにもいました。マッカーサー元帥は変わった人でしたが、滞在中は一歩も東京を離れず、どうやって日本を平和な国にし、発展させてゆくかを考えていました。その結果が日本国憲法です。憲法の制定そのものに私はかかわっていませんが、例えば憲法に「男女平等」を盛り込むよう提案した日本育ちのベアテ・シロタ・ゴードンさんはよく知っています。日本人の考えも反映しながら憲法はできたのです。決して連合国が一方的に押し付けたわけではありません。

 天皇制を残すという判断をマッカーサーがしたのも、日本人の感情を理解した上でのことでした。もし天皇に戦争の責任を負わせ、天皇制を廃止していたら内乱状態になっていたかもしれません。中でも「戦争放棄」を掲げた9条は、戦争は二度としないぞという世界の人々の願いが込められた理想的なものでした。最近、憲法改正や解釈変更が進んでいますが、どうして70年もたった今、そうしたことをしなければならないのか、私にはまったく理解ができません。「憲法9条は世界の宝」です。日本人は忘れないでほしい。

     ◇    ◇

 私は戦後、日米を往復しながら過ごしてきました。今では世界中で日本文学が読まれる時代になりましたが、日本人が古典や文楽、能といった伝統芸能に魅力を感じなくなってきているのが残念です。特に国文学を専攻する学生がほとんどいない。このままでは日本人が古典を読めなくなってしまう。入試対策で文法ばかりを教えるからです。

 私の研究テーマの一つが松尾芭蕉でした。「奥の細道」の舞台を訪ね、東北には特別な思いがあります。それだけに2011年の「東日本大震災」は大きな衝撃でした。その年の春、私は長く勤めたコロンビア大学を離れ、日本へ移住する予定でした。何とかして日本に恩返しをしたいという気持ちが強まりました。日本国籍を取って移住することが大きく報道されてからの2、3年はこれまでにない多忙な時期となりました。

 最近、国民が被災地のことを忘れてしまったかのような気がしてなりません。今なお多くの人が仮設住宅に住み、原発風評被害に苦しんでいます。その一方で東京ではオリンピックに向けて膨大な予算が使われようとしている。そんなお金があるなら被災地を優先すべきでしょう。熱しやすく冷めやすい日本人の悪い習慣が出ているような気がします。

 まもなく日本に永住して4年。以前はお客さんでしたが、今は自分の国のことですから、遠慮はしません。東北を忘れずに、と言いたいです。

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 ◇年々減る戦争体験者

 小山内さんが終戦を迎えたのが15歳。キーンさんは16歳でコロンビア大に飛び級入学した。終戦時、15歳以上だった人の数は年々減り、今年は全人口の3.83%に。10年後はどうなるのだろう。今こそ、その体験をしっかりと記憶しておきたい。

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 「論点」は金曜日掲載です。opinion@mainichi.co.jp

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 ■人物略歴

 ◇おさない・みえこ

 1930年、横浜市生まれ。脚本家。93年にボランティア組織「カンボジアの子どもに学校をつくる会」(現JHP・学校をつくる会)を設立し、代表を務める。

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 ■人物略歴

 ◇ドナルド・キーン

 1922年、米ニューヨーク生まれ。18歳で「源氏物語」と出合い、日本文学研究者に。コロンビア大学教授として多くの日本文学を翻訳し、世界に伝えた。
    −−「論点:戦後70年 私の戦後70年」、『毎日新聞』2015年08月14日(金)付。



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