覚え書：「今週の本棚：湯川豊・評　『劉邦　上・中・下』＝宮城谷昌光・著」、『毎日新聞』2015年08月09日（日）付。

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今週の本棚：湯川豊・評　『劉邦　上・中・下』＝宮城谷昌光・著
毎日新聞　2015年08月09日　東京朝刊
　
　（毎日新聞出版・各１７２８円）

　◇古代中国小説の完熟した姿

　漢を建国した高祖劉邦（りゅうほう）は、なかなかとらえどころが難しい人物だったようだ。宮城谷昌光氏自身が「連載を終えて」で、「私にとって劉邦はすじの通らない人であった」けれど、あるときから見方が変わった、といっている。見方が変われば、これほど面白い人物はない、という含みが言外にあるようだ。

　そして驚くべきことに、無名だった劉邦が発する「五彩（ごさい）の気（き）」から話が始まる。さらには、酔っぱらって寝ている劉邦の上に龍の姿がまつわりついているという不思議。そういう古代的伝承ともいう話を、著者自身が信じていると思わせるような迫真力で描いている。ふつうの農民の子から身をおこして、大帝国をつくりあげた男にこれ以上ふさわしい話はないと、私たちは著者と一緒に古代人の立てる五彩の気を見てしまうのだ。

　若い頃は小さな反抗集団のガキ大将。この大長篇に現われるのは、年齢でいうと四十七歳で、泗水亭（しすいてい）という小さな行政区の長である。亭長になっても、大言壮語するあやしい男とされるのだが、それが急速に立身するのではなく、ゆったりとしたペースで大きくなってゆく。県令の呂公（りょこう）に「天子の相」をもつと見こまれて、娘の呂雉（りょち）と結婚させられるあたりからだ。

　劉邦という人物の特徴を、小説から思いつくままに挙げてみようか。茫洋（ぼうよう）というしかないほど、度量が大きい。その大きさのなかに、単純な義〓心（ぎきょうしん）がつまっている。見こんだ人物を信じ、自分のそばに取りこんでしまう。と見ていくと、周囲の者たちが「人事の劉邦」として心服するのが、この男のもつ大きな能力だと納得できる。

　そういう男が冗談のような竹皮の帽子（竹皮冠（ちくひかん））をかぶり、〓（とう）県の南の岩山に小集団とともに住むようになると、有能な部下が集まってくる。樊噌（はんかい）、盧綰（ろわん）、夏侯嬰（かこうえい）、蕭何（しょうか）等々。

　このなかでは蕭何との関係が興味深い。戦闘上手ではなく、勢力圏に入った土地をたくみに管理する能力が抜群。劉邦はそこを見こんで、統治をまかせるのである。管理された側、すなわち農民の出身であることを心の底で思いつづけ、時として「農民出身でよかった！」と叫んだ劉邦の知恵である。

　配下でもう一人あげると、少し後で加わった韓出身の〓客（きょうかく）張良（ちょうりょう）。はかり知れぬ知謀の持ち主で、張良の静かな言葉を、度量の劉邦が聞き分けるという場面がいくたびもある。人に惚（ほ）れるのもまた力である。

　儒者とか礼楽（れいがく）が嫌いで、酒にも女にも弱いという劉邦が、いつの間にか大きな存在になるのは、状況を読み、他人の言に耳傾ける、誰も真似（まね）のできない知恵によるからともいえる。

　大きくなった劉邦の前に立ち現われるのが、項羽（こうう）である。楚（そ）の名家の出身、貴族的で直情径行。戦上手で自信家でもある。鴻門（こうもん）の会で、秦（しん）の都咸陽（かんよう）に先に入った劉邦を部下が示唆したように殺さなかったのは、やはり強烈な自信のせいか。

　韓信（かんしん）、彭越（ほうえつ）、黥布（げいふ）らの軍勢がいつの間にか劉邦に取りこまれ、項羽は思いがけずも孤立して垓下（がいか）の戦いで死ぬ。夜、項羽が「四面楚歌」の歌声を聞くあたりから、この大長篇は不思議な幻想味をおび、幻想から目覚めたところで、農民の力の化身であるような劉邦の、漢王朝が姿を現わす。人間の運命の劇を見据えるみごとな展開だ。

　司馬遷（しばせん）の『史記』以下、豊富な史料を渉猟し、史実と伝承をしっかりとたどりながら、著者の格別な思いのこもった主人公をそこに立たせる。宮城谷氏の古代中国小説の完熟した姿を見る思いがした。
　　　　−−「今週の本棚：湯川豊・評　『劉邦　上・中・下』＝宮城谷昌光・著」、『毎日新聞』2015年08月09日（日）付。