覚え書:「特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/8 政治をみんなの街頭へ 作家・小田実さん」、『毎日新聞』2015年08月19日(水)付夕刊。

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特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/8 政治をみんなの街頭へ 作家・小田実さん
毎日新聞 2015年08月19日 東京夕刊

特集ワイド
 ◇市民ができること 作家・小田実さん(2007年死去、享年75)

 永田町の国会周辺で、全国のあちこちで「憲法守れ!」「戦争反対!」の声を上げる若者たちが現れている。かつてのベ平連(「ベトナムに平和を!」市民連合)っぽくもある。小田実さんがいたら、と思った。

 ピアノの上に照れくさそうな遺影があった。手向けられたランの花とコーヒーが香る。「どないしたんや」。ぶっきらぼうな声が聞こえてきそうな気がした。兵庫県西宮市にある海の見えるマンション、一夜、鍋を囲んで飲んだりもしたが、ベ平連のことをゆっくり聞いたためしがない。政治の季節はとっくに過ぎ、小田さんは阪神間の文化人、あくまで著名な作家のひとりであった。むろん、愉快なおっさんには違いなかったが。

 「面白いものがあるの」。夫人の玄順恵(ヒョンスンヒェ)さん(62)が古びたスクラップブックを見せてくれた。水にぬれたのか、記事はどれもよれよれ。「週刊文春から平凡パンチ、アサヒ芸能まであるの」。1965年4月に哲学者の鶴見俊輔さん(7月に93歳で死去)が小田さんにかけた1本の電話から始まったベ平連の活動を伝える新聞、雑誌の切り抜きだった。「小田が貼り込んでいたようです。これは最初の集会とデモ。写真はほら、若者がみな明るく、楽しそうで、いい顔しているでしょ。で、8月14?15日は戦争と平和を考える徹夜のティーチイン。中曽根康弘さんや宮沢喜一さんまで引っ張り出してね。小田は33歳かな、このスクラップブックを手にアメリカを回ったそうよ」

 ベ平連とは何か? 初めてのデモで小田さんが書いたビラがある。<ぼくたちは、ふつうの市民です。ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している青年がいて、つまりこのパンフレットを読むあなた自身がいて、そのわたしがいいたいこととは、ただひとつ“ベトナムに平和を!”>。NHKを辞めた作家の小中陽太郎さん(80)は「失業者代表」として演説したことを覚えている。「鶴見さんがよく言ってたなあ。指導者小田を発見した、とね。でも小田さんは不満そうだった。オレは海辺の石かってね。彼こそ、多くの人を発見し、自由に特技を発揮させたんじゃないかな」

 ジャーナリストの吉岡忍さん(67)は「ヤングベ平連」のメンバーだった。岡本太郎さんの<殺すな!>の文字入り缶バッジをつくった。「ある日、アメリカ帰りの小田さんが缶バッジを見せて、ええやろって。こんなの、日本にもあればいいなあって僕が言ったら、ベ平連は言い出しっぺがやるんや、と。それで銀座のデザイン事務所に行き、ぜひ反戦バッジを、とお願いした。引き受けてくれた人が和田誠さんでね」。デモだけではない。ベ平連は雑誌「週刊アンポ」も発行した。吉岡さんは編集に携わった。表紙は横尾忠則さんらのイラストが飾り、ムツカシイ論考に交じって、漫画も入る。園山俊二さんの「これはまたぐっと次元のひくいアンポのおはなし」がケッサク。

 安保問題で自民党が女性に人気の男前芸能人を繰り出し、賛成か反対か「わかんない層」をつかまえているらしいと知った小田さん、渋々、整形美容でハンサム男に変身し、その足でキャバレーへ。ホステスに「ステキねえ」と甘えられると、テーブルをぽんとたたく。「アンポは反対やでー」。するとホステスが「わたし、あなた好みの女になるわー」。代表をいじる遊び心。なかなか懐が深い。「アハハ、手探りの市民運動だったけど、ファッションにしろ音楽にしろ、新しい動きがいっぱい出てきていた。文化革命みたいな熱気の中にいました」(吉岡さん)

 今、小田実がいれば、と問うとすかさず返ってきた。「きっと街頭に政治を持ち出しますよ」。街頭? 「ええ。阪神大震災のとき、小田さんは市民の立場で被災者を救済する法律づくりに奔走した。政治を議会や政党任せにせず、市民の側に引き寄せた。もちろん、安保関連法案に反対するでしょうが、集会なんかで安倍政権ケシカランというだけじゃなく、中国から、韓国から、北朝鮮から、そして同盟国といわれるアメリカからもゲストを呼んで多国籍な空間をつくり、そこで討論会を開くはず。政治を街頭で視覚化させる工夫をしていると思います」

 民主党衆院議員の辻元清美さん(55)は、炎天下の大阪にいた。「戦争法案を廃案に!」と声をからして。ベトナム戦争が終わった中3のとき、小田さんのベストセラー「何でも見てやろう」を読み、浪人時代、名古屋の予備校で英語講師をしていた小田さんの授業を受けたのがそもそも。「10代のころからやからね。私はベ平連の小田さんは知らない。でも、国会周辺のデモのなかにいると、巨体をゆさゆさ揺らしながら、デモの先頭で横断幕持って歩いていた小田さんの姿が浮かぶ。あ、もうおっさん、おらんのやって」

 思想家としての小田さんのキモは「『難死』の思想」といわれる。小田少年が大阪大空襲で見た黒焦げの死体、無意味な死をどう考えるべきか? 日本人は被害者だけでなく、加害者でもあったのではないか、とことん突き詰めた。「小田さんは戦争をいくさと言っていた。とにかくいくさはあかん。自身の体験から絞り出すように出てきた考えやからね。晩年は日本は良心的軍事拒否国家を目ざせ、と訴えていた。私もそう思う。アメリカが世界の警察官でいくんやったら、日本は世界の赤十字でいったらええやん。それにしても、シールズ(SEALDs=自由と民主主義のための学生緊急行動)ら頑張ってるよ。小田さんがまいた種が育ち、50年の時を経て、そこから花が咲いている感じがするなあ」

 7月18日に「戦後70年 小田実没後8年シンポジウム」が東京・市ケ谷であった。タイトルは「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」。いつも小田さんが口にしていた言葉である。そのシンポジウムの前夜、玄さんは国会前デモのなかにいた。「すごい波動が伝わってきた。いろんな人が来てる。ひとりで来てる。思い思いのプラカードを掲げて。ああ、これこそ、デモス(民衆)のクラトス(力)なんだ、と。ベ平連は、人間の渦巻きをと呼びかけてましたが、その渦巻きを感じました」。そう言ってベランダから海を見た。「小田は疲れると、芦屋浜までよく散歩をしてね。そう、こんなことも言ってました。日本とアメリカは軍事条約しかない。おかしいじゃないか。日米友好条約を結ぶべきじゃないかと」

 そんな提言などどこからも聞こえてこない、なんだかむなしい「アンポの夏」である。【鈴木琢磨】=つづく

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 ■人物略歴

 ◇おだ・まこと

 1932年大阪生まれ。51年、小説「明後日の手記」で作家デビュー。東大大学院在学中にハーバード大へ留学。世界各地を旅しながらつづったエッセー「何でも見てやろう」がベストセラーになる。著書に「HIROSHIMA」「『アボジ』を踏む」「終らない旅」など多数。九条の会の呼びかけ人でもあった。
    −−「特集ワイド:会いたい・戦後70年の夏に/8 政治をみんなの街頭へ 作家・小田実さん」、『毎日新聞』2015年08月19日(水)付夕刊。

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