覚え書:「今週の本棚:江國香織・評 『恋と夏』=ウィリアム・トレヴァー著」、『毎日新聞』2015年08月16日(日)付。


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今週の本棚:江國香織・評 『恋と夏』=ウィリアム・トレヴァー
毎日新聞 2015年08月16日 東京朝刊
 (国書刊行会・2376円)

 ◇ひたすらなされる細部の描写

 ミセス・コナルティーのお葬式から始まるこの小説の冒頭は映画みたいだ。誰が誰なのか説明されないまま、何人かの登場人物の様子が映し出される。最初はほんのすこしわかりにくいかもしれない。優れた映画がみんなそうであるように、どの場面にも、人物以外に風景や色や匂いや音や光や影や小道具が、可能な限りたくさん、細心の注意を払って配されているからで、だからゆっくり、味わいながら読む必要がある。この、きわめて美しい一冊の醍醐味(だいごみ)は、なんといっても、ひたすらなされる細部の描写にあるので、ストーリーを説明するのは野暮(やぼ)だと思う。が、しないわけにもいかないので最低限だけすると、ある夏の物語だ。時代は二十世紀後半、舞台はアイルランドの田舎町ラスモイ。エリーという娘がフロリアンという男に恋をする。生れてはじめての恋だ。でもエリーには夫がいる(このあたりの事情は、本を読んで確かめてほしい)。この生れてはじめての恋の描写のみずみずしさは圧倒的で、読んでいる本の頁(ページ)がまぶしく見えるほどだ。勤勉でやさしく、誠実な夫(寡男(やもお)だが、エリーと死んだ妻を比べたりは決してせず、「自分は二度も幸運に恵まれたのだとわかってい」る夫、エリーの作る野菜サラダを「夏のご馳走(ちそう)」と呼び、「しょっちゅう出てきても決していやな顔をしない」夫)の存在と、はじめての恋のあいだで揺れるエリーの心理だけでも読み応えがあるのだが、それはこの小説のごく一部だ。

 主題は恋ではない。恋は、他の登場人物たちもかつてみんなしたのだ。他の登場人物たち、その過去、その現在−−

 たとえばエリーの恋人であるフロリアンは、生れ育った家を売ろうとしている。彼には亡き両親の思い出があり、大好きだったいとこのイザベラの存在がある。「わたしたちはひとつのものが分かれた半分ともう半分なの」と言ったイザベラ。エリーの夫には勿論(もちろん)亡き妻と子供(悲劇的な死に方だった)の記憶がある。冒頭で死体として登場するミセス・コナルティーの娘と息子(この二人は双子の姉弟でどちらも中年の独身者なのだが)にも、それぞれ過去があり現在がある。さらに、この町にはオープン・レンという名の、現状認識の混乱した老人もいて、この老人とミセス・コナルティーの娘は、思いがけない形でエリーの恋に影響をおよぼす。

 瞠目(どうもく)するのは、すでに死んでいる人たちといま生きている人たちが、渾然(こんぜん)一体となって小説を構成していることだ。人々はこの世を流れていく。通り過ぎていく。誠実さも、善意も悪意もみずみずしい恋も、幸運も不運も悲劇的な事故も、ひとところにとどまってはいず、やがてこの世から忘れ去られる。「万々歳だ」が口癖の神父も、「一日のこの時間にセブンアップを飲むと元気が出る」というミセス・コナルティーの息子の習慣も、「この夏は永遠にぼくらのものだ」という、恋人の真剣な言葉も。

 実際、この小説は通り過ぎていくものたちで埋めつくされていると言えるのだが、それを象徴するかのような絵葉書がでてくる。フロリアンが売ろうとしている家の台所に置いてあるその絵葉書は、彼の母親が趣味で蒐集(しゅうしゅう)していたもので、全く知らない誰かが、遠い昔に書いたものだ。フロリアンとも小説内の出来事とも何の関係もないのだが、でもそこにあり、「神々しい青空です。この街も天国みたい」と書かれている。そんな葉書がでてくるくらい、これは馥郁(ふくいく)とした小説なのだ。(谷垣暁美訳)
    −−「今週の本棚:江國香織・評 『恋と夏』=ウィリアム・トレヴァー著」、『毎日新聞』2015年08月16日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20150816ddm015070085000c.html



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