覚え書:「西欧に映った戦後の日本像 賀川豊彦、日本初のノーベル文学賞候補」、『朝日新聞』2015年10月02日(金)付。
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西欧に映った戦後の日本像 賀川豊彦、日本初のノーベル文学賞候補
2015年10月2日
公開された1947、48年のノーベル文学賞の選考資料。一番上が賀川豊彦の推薦文=ストックホルムのノーベル図書館
写真・図版
今月発表されるノーベル文学賞で、1947年に日本人初の「候補」となった人物がいる。作家よりも社会活動家として知られる賀川豊彦(1888〜1960)だ。なぜ賀川だったのか。
■「救済の目的小説」と国内評価
ノーベル文学賞の資料は選考から50年後に公開される。スウェーデンのノーベル図書館に、47ログイン前の続き年の文学賞候補として賀川を推す文書が残っていた。
「彼は世界文学に自らの位置を有している」
推薦したのは当時のスウェーデン王立文学史・古美術アカデミーの会員。ウプサラ大のクヌート・ベルンハルド・ベストマン教授だった。推薦書に賀川の小説5作と詩集1作を挙げ、内容に触れながらこう力説した。「四季の移ろう自然の裏にある日本を暴いた。人びとは現代の苦しい貧困や産業化の圧力に苦しんでいる。そういう人たちに寄り添い、救済する人間愛が彼の詩を特徴付けている」
賀川は47年に35人の候補リストに残り、翌48年も31人のうちの1人に。ただ、いずれも「文学性が低い」と最終候補から漏れた。
賀川は米プリンストン大で神学を学び、神戸で貧民救済運動に従事。生活協同組合を日本に根付かせた。戦後復興や平和活動にも尽力した。作家としては、100万部のベストセラーになった20年の自伝的小説『死線を越えて』がある。ただ島崎藤村や菊池寛といった当時の文壇の重鎮は、文学的には評価しなかった。賀川豊彦記念松沢資料館の杉浦秀典副館長(50)は「どの小説も、苦しい人たちが活動に目覚め、救われていくストーリー。救済活動の普及をめざした『目的小説』だった」と話す。
「ノーベル賞の国際政治学」という論文もある高崎経済大の吉武信彦教授(国際関係論)は「社会を改革する人物による、同時代のドキュメンタリーのような読まれ方をしたのかもしれない」と分析する。スウェーデンでは30年代に社会活動家として注目され、10作以上が次々と翻訳されていたからだ。
ノーベル文学賞の選考には、海外から見たその時々の日本像が影響しているとの指摘もある。例えば68年にノーベル文学賞を受賞した川端康成は「美しい日本の私」を語り、羽織袴(はかま)で授賞式に出席した。戦後復興を果たし、海外では富士山や芸者といった日本像が広まっていた。ストックホルム大のグニラ・リンドベリー・ワダ名誉教授(日本学)は「本来はモダニストだった川端も、海外の評価を意識して日本の伝統的な美を打ち出した」とみる。
94年には「窮地にある現代人を描いた」として、大江健三郎さんが受賞した。「バブル崩壊後は、西欧と同じ問題を抱えている国と映っていた。共通するテーマを感じたのでしょう」
賀川が推薦された47、48年はどうか。「被爆のインパクトが大きかった。日本と直接に戦っていない西欧には同情があった。キリスト教的な救済活動をし、戦後の問題を感じさせる作家として、賀川を推しやすかったのではないか」
そして現代。日本は優れたポップカルチャーの国というイメージが強い。「その流れをとらえた文学が評価されるかもしれません」(ストックホルム=高津祐典)
■ノーベル文学賞の日本人候補者
候補者 候補の年
賀川豊彦 1947、48
谷崎潤一郎 58、60〜64
西脇順三郎 60〜64
川端康成 61〜64
三島由紀夫 63〜64
(公開された1901〜64年までの選考資料による)
−−「西欧に映った戦後の日本像 賀川豊彦、日本初のノーベル文学賞候補」、『朝日新聞』2015年10月02日(金)付。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S11994312.html