日記:物語に勲発されて拓いていくのか、それとも物語に依存して退行していくのか。

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村上春樹さんほど「物語」の重要性を強調することには慎重です。良い物語と悪い物語の不毛な二項対立が永遠に続いてしまうからです。ですが、量子論的な観点から「全く無意味だ」と言い切ることにも躊躇します。なぜなら、人間は世界とは何か、人間とは何を理解する上で「物語」という「杖」が必要不可欠だからです。

「哲学は驚きから始まる」とアリストテレスが言及したとおり、日常生活の些細な発見からその見直しを通じて人間は認識を更新していく訳ですから、そのフレームワークとしては必要だからです。

しかし、人間が何かを理解するためのさしあたっての「杖」であり「水先案内人」でしかない点は留意すべきだし、ここは強調したいと思います。人間は無から何かを創造したり、理解したりすることなんて不可能な訳ですから。

そして何かを理解することでその物語は一端の役割をある意味では「終える」訳ですし、人間が何かを理解することとは、決定的1回の出来事ではなく、更新の連続という不断の営為になりますから、「物語」自体も「終える」で「オシマイ」ではなく、「杖」であるにもかかわらず「物語」そのものも絶えず更新が求められることになります。

仮象」に過ぎないのであれば、「物語」に依存する必要などない、という意見もよく耳にしますが、そこまで人間は強くはありません。だから僕は「物語」を全否定はしません。しかしそれを絶対化したり固定化したりすることには慎重であらねばなりません。杖に「依存」することは、人間が何かを理解することを窮屈にさせ、その不断の営為を補佐する手段であったものが、かえってその営為を妨げるものへとすり替わってしまうからです。

実にこれ1mmほどの認識の「ズレ」の問題なのですが、物語に勲発されて拓いていくのか、それとも物語に依存して退行していくのか。1ミリのズレの凄まじさを現在進行形で感じています。






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