覚え書:「耕論:安倍談話の歴史観 成田龍一さん、李元徳さん、久保亨さん」、『朝日新聞』2015年10月10日(土)付。

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耕論:安倍談話の歴史観 成田龍一さん、李元徳さん、久保亨さん
2015年10月10日

 安倍晋三首相がこの8月、戦後70年を機に出した「安倍談話」に流れる歴史観について、改めて考えてみる。それは歴史を、矛盾なく説明できるものなのか。

 ■司馬史観、一側面だけ利用 成田龍一さん(日本女子大学教授)

 安倍談話の歴史観は、司馬遼太郎歴史観と一見、近いものがあります。8月14日は韓国にログイン前の続きいて、韓国の日本研究者たちと談話の発表を見ていたのですが、みんな「ああ、司馬だ!」と言いました。

 西洋諸国の植民地支配の中で、日本が近代化を進め、独立を守り抜いたという出発点や、日露戦争が近代化の達成点だということ。やがて日本が第1次世界大戦後につくられた新しい国際秩序に対する挑戦者になり、失敗したという見方もよく似ています。

 司馬史観の特徴は、国民国家という枠組みや価値観を肯定していることです。「竜馬がゆく」「坂の上の雲」などでは、日本が国民国家化をなしとげたプロセスを1960〜70年代初めの経済的繁栄の追求と重ねて描くことで、戦後日本の指針を示そうとした。

 ただ、そこには弱点もありました。司馬は、日本の近代化と国民国家化は成功だったが、その先で間違えたという二段階で考える。だが、近代化の過程で欧米とそっくりな国にしたために、日本は軍事的にも領土的にも拡大路線をとらざるをえなかった。司馬が成功と見なしたことが、実は失敗に直結していた。安倍談話も同じく二段階で捉えているから、司馬史観の弱点を引き継いでいるといえます。

 もう一つの弱点は、植民地の問題に視線が及んでいないことです。「坂の上の雲」には台湾や朝鮮の植民地化がほとんど出てこない。安倍談話も「植民地支配からの訣別(けつべつ)」は強調しても、誰が植民地化したのかには触れない。日本が加害者だという視点が希薄な点でも共通しています。

 ただ、忘れるべきでないのは、司馬の考えが時代によって変化していたことです。60年代には、国民国家にもとづく経済的繁栄こそが日本の進むべき道だと考えていた。それが80年代には、「菜の花の沖」で、高田屋嘉兵衛という商人が日本を超えてロシアと接触する姿を描いた。「韃靼(だったん)疾風録」では、長崎・平戸の武士が単身で明に渡り、多くの民族の中で、日本人としてのアイデンティティーが薄れていく様を描いた。

 つまり、司馬は単純に国民国家を肯定していただけの人ではなく、グローバル化の波の中で、国民国家の枠組みを超えていくことも考えていました。しかし、安倍談話はそうしたものは一切、採り入れていない。「坂の上の雲」の司馬しか見ず、司馬史観の一つの側面だけを安易に利用しているように見えます。

 東日本大震災の後、経済的繁栄とは違う新たな目標を誰もが求めた。60年代の司馬的な理念はそこで終わったはずですが、安倍談話は国民国家を立て直し、経済的繁栄を取り戻すという、司馬自身も80年代に捨てた夢を追っている。そこが決定的な問題だと思います。

 (聞き手・尾沢智史)

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 なりたりゅういち 51年生まれ。専攻は近現代日本史。著書に「近現代日本史と歴史学」「戦後思想家としての司馬遼太郎」「司馬遼太郎の幕末・明治」など。

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 ■日露戦争「悲劇の始まり」 李元徳さん(韓国・国民大学教授)

 安倍談話には「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とあります。これは韓国の立場から見て、最も違和感を覚える部分です。

 日露戦争朝鮮半島満州の支配をめぐって争われ、日本がロシアを破った。日本は1905年に第2次日韓協約で韓国の外交権を握り、保護国にします。そして10年には韓国を併合し、植民地にしてしまう。日露戦争は、朝鮮半島からみれば勇気づけられたどころか、悲劇の始まりだったわけです。

 「独島(トクト)」(日本名・竹島)もそうです。日本は1905年2月、「竹島」を島根県編入します。日本海でのロシアとの海戦を前に、独島が軍事的に価値があると判断したためで、韓国では日本による主権侵奪の最初の犠牲と受け止められている。日露戦争と独島、植民地化の問題はつながっているというのがいわば常識で、それに反しているから違和感が強いのです。

 韓国の歴史学者でも、当時の状況について、自己反省的な歴史認識を持っている人も多い。日本は近代国家づくりに成功したが、当時の朝鮮半島では近代的な文明を採り入れて改革すべきだという勢力と、守旧派による権力闘争が続いていました。それが外部勢力による侵略を招いたという側面は否定できない、という考え方です。ただ、だからといって、植民地化がやむを得なかったというわけではありません。

 95年の村山談話は「植民地支配と侵略」によって、「多大の損害と苦痛」を与えたことを認め、「痛切な反省」と「心からのお詫(わ)び」を表明しました。2010年の併合100年に合わせて出された菅談話では、それがさらに明確に示されています。

 ところが、安倍談話では1931年の満州事変から、進むべき針路を誤ったとなっています。村山談話以降の日本政府の歴史認識を否定し、後戻りしたかのようです。一方で安倍談話は「歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎない」としている。相矛盾する考え方で、どちらが安倍首相の本当の歴史認識なのか。

 朴槿恵(パククネ)大統領は「揺るぎない」という部分に注目して一定の評価をしましたが、それは日韓関係をこれ以上、悪くしないための戦略的な判断だったと思います。実際にはより、不信感は強くなったのではないでしょうか。

 私は安倍首相が韓国嫌いだとは思っていないし、韓国の重要性も理解していると思いますが、今回の談話には韓国に対する怒りも感じる。慰安婦問題などで極端に悪化した日韓関係の現状の反映かもしれません。「ポスト安倍」になれば、村山談話歴史認識に戻れるのか。それが、大きな関心事です。

 (聞き手・東岡徹)

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 イウォンドク 62年生まれ。2005年から韓国・国民大学日本学研究所長。韓国現代日本学会長、韓国外交省政策諮問委員も務める。

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 ■「内向き」脱し、広い視野を 久保亨さん(信州大学教授)

 日露戦争でアジアの小国がヨーロッパの大国に勝ったことは、インドやベトナムの民族運動指導者に確かに強い印象を与えました。しかし、日露戦争をその面だけから描くのは、あまりに日本中心の歴史観だといえます。

 例えば、勝敗の決め手の一つとなった1905年の奉天会戦は、日ロ合わせて60万人近い兵力がぶつかりました。戦場は中国の遼寧省。そこに住んでいた中国人たちは避難民になってしまった。

 戦争中に発生した避難民は計100万人以上とされ、当時の清朝政府の地方官は、誤射などの巻き添え被害で数百人以上が死亡したと記録しています。戦争で迷惑をかけたこのような歴史事実は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも触れられてはいません。

 安倍談話はまた、日本が「戦争への道を進んでいった」きっかけとして29年の世界恐慌を挙げました。その後の満州事変、国際連盟の脱退を経て、日本は全面戦争に向かったという見方です。

 しかし、これも正確ではありません。軍事力にものをいわせ、日本が中国で利権を手に入れようとした動きは、もっと早くに起きているからです。それらが結局、「戦争への道」を踏み固めていったと私は考えています。

 典型例は第1次大戦中の15年に、中国につきつけた「対華21カ条要求」です。

 最大の要求のひとつはドイツが山東半島で進めていた鉄道、鉱山開発などの権益継承でした。大戦に参戦した日本は敵国ドイツの青島(チンタオ)基地を5万人の兵力で攻略し、後釜になろうとした。要求は認められ、日本軍は青島に230ヘクタールの工場用地を造成しました。

 安倍談話の歴史観を一面的と言いました。ただ、中国の20世紀の歴史を全体的、客観的に捉えることは、実はいまもなお難しい。革命によって政権が3回変わった結果、自分たちが打倒した前政権の悪いところ、遅れた点を新政権が強調したためです。

 日本が侵略した国民党時代の欠陥を共産党政権は批判し続けました。侵略した日本は悪かったけれど、当時の中国もひどい状態だったという歴史観が日本で根強いのは、その影響かもしれません。侵略を合理化する歴史観からまだ脱しきれていないのです。

 実際には国民党時代も、「21カ条要求」を受けた中華民国北京政府の時代も、近代国家形成への努力がありました。そうした中国となぜ対等な協力関係を築けず、日本は侵略や戦争を起こしたか。

 それらを客観的に振り返るためには、日本中心の内向き歴史観を克服して、アジアの隣人とも共有できる、広い視野を備えた歴史観を持つことが不可欠です。首相だけではなく日本社会全体の、「戦後70年」後の課題でしょう。

 (聞き手・永持裕紀)

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 くぼとおる 53年生まれ。専門は中国近現代史で、主に20世紀前半の社会経済史を研究。2013年から歴史研究者の全国学会「歴史学研究会」委員長。
    −−「耕論:安倍談話の歴史観 成田龍一さん、李元徳さん、久保亨さん」、『朝日新聞』2015年10月10日(土)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12009071.html


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