覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『職業としての小説家』=村上春樹・著」、『毎日新聞』2015年10月11日(日)付。

Resize4261

        • -

今週の本棚:沼野充義・評 『職業としての小説家』=村上春樹・著
毎日新聞 2015年10月11日 東京朝刊
 
 (スイッチ・パブリッシング・1944円)

 ◇大事なのは「良き読者」と「個人の資格」

 今年も村上春樹ノーベル文学賞受賞への期待は、空振りに終わってしまった。そのニュースがもたらした失望がまだ生々しい時期に、この書評が載ることになった。とはいえ、そういう話題で言及されるのは、著者がおそらく嫌うところだろう。本書の第三回「文学賞について」(本書では「章」ではなく、連続講演のように「回」と呼ばれている)で村上氏が雄弁に主張しているように、作家にとって何よりも大事なのは「良き読者」と「個人の資格」である。賞によって作品の価値が増すわけでも、受賞者がより優れた作家に変貌するわけでもない。私自身も常に、作家にとって最高の勲章は作品そのものだ、と言ってきた。

 世間の「騒音」はさておき、静かに耳を傾けてみれば、「自伝的エッセイ」と銘打たれた本書は、作家の文学的ポートレートになっているだけでなく、恰好(かっこう)の村上文学入門書にも、また小説とは何かについて原理的なことを考えるための貴重な評論にもなっていると言えるだろう。

 語り口は、あくまでも平易で、親しみやすい。あとがきで著者が言うように、三十人から四十人くらいの聴衆が目の前に座っている小さなホールで、「できるだけ親密な口調」で、これは「あくまで個人的な意見」ですと断りながら、押しつけがましくなく語りかけるスタイルで統一されている。六十歳をとうに超えた世界的な人気作家が、一貫して「僕」の一人称を使って、自分のことをちょっと恥ずかしげに「いちおう」小説家と名の付く存在と謙遜しながら、「こんな素晴らしい職業って、他にちょっとないと思いませんか?」と問いかける。

 昔、文士というのは平凡な読者よりもよっぽど偉い存在であったり、不健康で自堕落な生活をして人に迷惑をかけて自分も破滅したり、あるいは逆に(ロシアなどでは特に)社会の教師として人々を導いたりしたものだ。しかし、村上春樹はいつでも読者と同じ次元に立って、読者に寄り添いながら、しかし「自分は自分」という個人主義的な姿勢をくずさずに、頭の切れる批評家たちの悪罵にもめげず、多くの読者の支持を支えに、職業的作家として三十五年も書き続けてきた。

 もっとも、長寿が普通になった現代では、詩人歴六十年を超える谷川俊太郎や、小説家歴がやはりほぼ六十年になる大江健三郎など、もっと長いキャリアを持つ書き手もいる。彼らにはまだ遠く及ばないにしても、三十五年もトップランナーを続けるのは並大抵のことではない。そこで村上氏は、職業的作家にとって大事なのは「持続力」と、「基礎体力を身につけ」「健康維持」に努めることだ、と強調する。彼の持論だが、小説家は魂の危険な奥底に降りていくのが仕事であり、そこで「深い闇の力に対抗する」には「フィジカルな力」が必要なのだという。

 これは、じつは確固たる自信と使命感がなければ言えないことだろう。村上氏は柔らかい言葉を使って謙遜ばかりしているわけではない。自分は天才ではない「ごく普通の人間」であることを認める一方で、デビューの頃、ある特別な「啓示」を受け、自分は「何かしらの特別な力」によって小説を書く「資格」を与えられたのだとも語っているからだ。また本書を通じてしばしば響いているのは、自分にとって大事なのは読者だという主張と表裏一体をなす、批評家たちへの不信感・批判的な姿勢である。

 本書では「個人」としての作家の営みの問題に徹しながら、社会に通ずる回路も探られている。それが端的に表れているのは、「個人の資質を柔軟に伸ばす」ことをあまり考慮しない、現代日本の教育システムの欠陥を論じた第八回「学校について」においてである。ここで村上氏は珍しくかなりストレートに、「効率性」「功利性」を追求してきた会社や官僚組織の傾向にも説き及び、福島の原発事故もそういった日本の社会システムによってもたらされた人災であると批判している。ぜひ広く読まれ、議論されるべき章だろう。

 村上春樹の作品はいまや五十以上の言語に翻訳され、彼の小説は文字通り、日本の国境を越えて「世界文学」となっている。そこでは彼の作品がもともと日本語で書かれているということも、二次的になってしまう。かつて、こんな日本作家はいなかった。このように海外に進出することがどうして可能になったのか、アメリカの出版社、編集者、翻訳家などとの付き合いを通じて語った第十一回「海外へ出ていく。新しいフロンティア」も、この作家の世界における存在感を考えるうえで、大変興味深い。

 ノーベル文学賞を取るかどうかが重要なのではない。村上春樹がこういう作家であることが大事なのだ。その作家が好きかどうかは、読者次第。村上ファンには堪(こた)えられない本であることは言うまでもないが、村上作品に対して否定的な読者にとっても、この作家がどのように独自な存在であり、現代社会において持続的にプロの作家であることが何を意味するのか、知るためにぜひ読むべき一冊である。
    −−「今週の本棚:沼野充義・評 『職業としての小説家』=村上春樹・著」、『毎日新聞』2015年10月11日(日)付。

        • -





http://mainichi.jp/shimen/news/20151011ddm015070050000c.html








Resize4108



職業としての小説家 (Switch library)
村上春樹
スイッチパブリッシング (2015-09-10)
売り上げランキング: 108