覚え書:「職業としての小説家 [著]村上春樹 [評者]佐倉統(東京大学教授・科学技術社会論)」、『朝日新聞』2015年10月18日(日)付。

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職業としての小説家 [著]村上春樹
[評者]佐倉統(東京大学教授・科学技術社会論)  [掲載]2015年10月25日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 

■文体革命もたらし、矛盾や変化を刻む

 村上春樹の自伝的小説論&小説家論。既出の情報も多いが、ファンなら読んで損はない。
 彼は、日本語小説の文体に革命をもたらした人だ。文体を変えるということは表現の手法を変えることで、すなわち物の見方や考え方を変えることである。つまり、拠(よ)るべき価値観や規範を変えるということである。
 初めて小説を書くに当たって、新しい文体を開拓するためにどのような作業をしたか、本書に詳しく書かれている。劇的な出来事が起こらない日常生活を題材として小説を書くためには、「これまでの作家が使ってこなかったような(中略)軽量ではあっても俊敏で機動力のある」文体がどうしても必要だった。そのために彼は、一度英語で書いてから日本語に翻訳し、さらにコツコツと叩き上げていくことによって、望む文体を作り上げていった。
 村上のこの試行は、大瀧詠一山下達郎たちによる、日本語でポップスを不自然でなく歌う音楽語法の模索に符合する。戦後の日本人が、自分たちの生活や心情を適切に表現する言葉と歌を手に入れたのは、1970年代から80年代初頭にかけてと言えそうだ。
 村上は、みずからの心の奥底(スピリチュアル)に「降りて」いき、物語の素材を持って帰ってくる。自己の無意識を意識化して、小説に仕立て上げていく。現実世界に「何も書くことがない」のだから、心の深層を掘り下げて探しにいくしかない。
 一見、何事もなく見える日常の、一皮むいた下には社会の潜在的な矛盾や変化が渦巻いている。村上作品とは、その矛盾を鋭敏に察知した彼の無意識を文章に彫り込んでいったものなのである。実際、本人の実感として、彼の小説は社会が地滑り的に変革している国でよく読まれているらしい。だとすると、村上の作風を嫌う人たちというのは、社会のこのような変化自体を快く感じていない向きなのではあるまいか。
 今回、彼の最初期と最新の長編を2編ずつ読み直して改めて気づいたのだが、新しい文体は最初期のそれと明確につながっている。両者大きく異なるという印象をもっていたのだが、そうではない。最近作の文体は軽量な俊敏さはそのままに、非現実的世界の劇性を語るのに適した稠密(ちゅうみつ)さと濃密さを兼ね備えている。文体と描かれる世界の有機的融合。これはやはり、成長あるいは円熟と呼ぶべきなのだろう。
 しかしそのルーツは、やはりデビュー作『風の歌を聴け』にある。であれば、この作品こそが金字塔と位置づけられるべきなのか。
 評価は時にまかせよう。今はただ、彼の作品をリアルタイムで楽しめる特権を享受しておきたい。
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 スイッチ・パブリッシング・1944円/むらかみ・はるき 49年生まれ。作家、翻訳家。79年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。『ノルウェイの森』『1Q84』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』など。翻訳書も多数。
    −−「職業としての小説家 [著]村上春樹 [評者]佐倉統(東京大学教授・科学技術社会論)」、『朝日新聞』2015年10月18日(日)付。

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