日記:新聞は「今なにが大切な問題か」「それを、どう考えるのか」の「問題設定」型として生き残るしか道はない

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 ネットに煽られ、活字メディアはますます視野狭窄に陥っている。「嫌韓嫌中」がネットにあふれると、そうすれば売れると踏んだのか、新聞・雑誌にもそれが満載される。「誇れる日本」とか「ニッポンの底力」といった自尊心をくすぐる言葉が出回ると、新聞もその尻馬に乗る。
 「すべてのナショナリズムは健全であるとともに病的である」と言ったのはトム・ネアンである。「ナショナリズムのよってくる源泉は暗い」(イザイア・バーリン)とも言われるので、こうした傾向を暗い病的なナショナリズムと位置づけることもできよう。が、そもそもナショナリズムは「政治的単位と文化的単位は一致すべきとする政治的原理」とアーネスト・ゲルナーが簡潔に表現したように、そこでは自国民と同様に他国民に対する一定の敬意も求められている。なぜなら自国の存在および主権を国際的に認めさせるのには、他国の存在と主権も尊重しなければならないからである。にもかかわらず昨今の新聞・雑誌・ネットにあふれる言説は、本来のナショナリズムを冒涜するわめき散らしの類でしかない。
 この種の言説があふれ、また国民も好んで消費するのは、すでに述べてきたように、「国民=国家」としてきた「国民国家」が行き詰まっているからである。国民国家の「国民」と「国家」が乖離し、国家に依拠してきた国民がアイデンティティを見失って浮遊し始めたからである。自信を失った国民は「凡庸のナショナリズム」(ミッシェル・ビリング)、あるいは「社会的不満のナショナリズム」(ジェラード・デランティ)に走って、自らの不安をかき消そうとしている。
 「国民国家」が溶けつつあるのでから、それを支え、一緒に発展してきた新聞の生命も消える運命にあると見放すこともできる。が、新聞が「大好きな」私個人としては、どうしても新聞に最後の踏ん張りを期待したい。では、どうすればいいのか。
 新聞はかつて、世論の指導機関と捉える「木鐸」型、世論の反映機関とする「鏡」型、世論の形成機関と見る「広場」型と称されて、変化してきた。これからの新聞は、一言で言えば「今なにが大切な問題か」「それを、どう考えるのか」の「問題設定」型として生き残るしか道はない。卑近な事象に最大限の神経を研ぎ澄まして問題点を探り当て、読者に提示する。国民国家が変容するなかで、ではどういう道があるのかを考え、国民に問うていく。
 メディアが寡占化し、読者が「おたく」化するなかで、かなり難しい選択であることは分かっている。しかし新聞は本来、「公共性」を売りものにしてきた特殊商品のはずである。資本主義敵大量生産を志向して一般商品としての発行部数ばかりを競ってきたが、もはやその時代は終わった。八方美人では新聞は誰も買ってくれない。
 さすがに恥ずかしいのか、最近の新聞は「公器」を自称しなくなった。が、今こそ原点に立ち戻って、堂々と「公器」を名乗るがよい。もし、その名に耐えられないのなら、退場するのみだ。
    −−鈴木健二『戦争と新聞 メディアはなぜ戦争を煽るのか』ちくま文庫、2015年、303−305頁。

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