覚え書:「翳りと艶めかしさと 原節子さんを悼む 映画評論家・蓮實重彦」、『朝日新聞』2015年11月27日(金)付。

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翳りと艶めかしさと 原節子さんを悼む 映画評論家・蓮實重彦
2015年11月27日

(写真キャプション)「山の音」から。左は山村聰(C)東宝
 原節子と聞くと、思わずペドロ・コスタに連想をはせてしまう。傑作「ヴァンダの部屋」(2000年)で世界を驚かせ、最新作「ホース・マネー」(14年)が今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で大賞に輝いたポルトガルの尖鋭(せんえい)な映画作家のことである。

 彼は小津安二郎生誕100年記念のシンポジウムのログイン前の続きために来日し、「小津はパンクだ」と言い放って聴衆を呆気(あっけ)にとらせた翌日、鎌倉で原さんのご自宅を探しあて、せめて遥(はる)かな後ろ姿でも目にしたいと、ビデオカメラを構え続けていた。それは徒労に終わったのだが、この神話的な女優の名前が世界に轟(とどろ)いているのは、そのことからも明らかだろう。ペドロに原さんの訃報(ふほう)をメールで伝えたのはいうまでもない。

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 42歳で引退してから半世紀以上も人前に出ることのなかった原節子の国際的な名声は、「晩春」(1949年)から「小早川家の秋」(61年)まで、6本もの小津作品に出演したことに多くを負っている。

 小津監督の死の直後、「けしからん奴(やつ)がぼくらの前から小津さんをさらってった」としか思えず、遺体の置かれた病院ではとても悲しい気持ちになれなかった名キャメラマン厚田雄春さんは、鎌倉で裏方として通夜の準備にはげんでいたが、玄関に原さんを出迎えて「目と目が合ったとたんに、もう涙があふれ」抱きあうしかなかったという。この証言が示唆しているように、既に引退の意思を秘めていたはずのこの女優とこの監督との深くて複雑な関係は、とても尋常なものではなかったはずだ。

 にもかかわらず、原さんの訃報に接して見直さずにいられなかったのは、山中貞雄監督の「河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)」(36年)と成瀬巳喜男監督の「山の音」(54年)だった。

 筆者の生まれた年に撮られた山中作品での原節子はまだ10代だったはずだが、弟の不始末から身を売らねばなるまいと決意する和服姿の伏し目がちのクローズアップが素晴らしい。戸外にはいきなり雪が舞い始めるのだが、これは日本のみならず、世界の映画史でもっとも悲痛な場面として記憶さるべき一瞬である。

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 また、98年のサンセバスチャン国際映画祭で成瀬巳喜男の回顧特集が行われたとき、成瀬における原節子は小津作品に劣らず魅力的だと評判になったことを記憶している。

 とりわけ、「山の音」の彼女が素晴らしい。早朝の鎌倉の自宅で鼻血を流し、義父の山村聰に介抱される場面での無言のクローズアップは、小津とは異なる艶(なま)めかしさを画面いっぱいに行きわたらせて、「永遠の処女」伝説とはおよそ無縁の豊かに翳(かげ)りをおびた女性像が見るものを陶然とさせる。終幕の新宿御苑での2人の語らいに向けられたキャメラの透明な距離感と奥行きは、文字通り天下一品というほかはない。

 この文章を書き終えようとしていると、ペドロ・コスタからの返信がとどく。「ある晩、鎌倉で、私は、光に照らされた白い窓越しに、原さんの人影をふと目にしたように思う」と彼は書いている。「ふと目にしたように思う」という錯覚とも現実ともつかぬ体験から、映画というフィクションが世界に向けて生々しく拡(ひろ)がりだして行くのかもしれない。

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 はすみ・しげひこ 1936年生まれ。元東京大学総長。著書に「監督 小津安二郎」「映画狂人」シリーズ他多数。

 ■「山の音」

 川端康成野間文芸賞受賞小説を、「浮雲」「乱れる」など男と女の機微を繊細に描くことに定評のある成瀬巳喜男監督(1905〜69)が映画化した。主人公の信吾(山村聰)は鎌倉の閑静な住宅街で、妻保子(長岡輝子)、息子修一(上原謙)とその妻菊子(原節子)と暮らしている。老いを意識し始めた信吾は、次第に菊子に対して愛情に近い感情を抱いていく。脚色は水木洋子

 ■「河内山宗俊

 若き天才監督とうたわれ、日中戦争で散った山中貞雄(1909〜38)。「丹下左膳余話 百萬両の壺」「人情紙風船」と並び、現存する山中作品3本のうちの1本だ。江戸のヤクザ者、河内山宗俊河原崎長十郎)と金子市之丞(中村翫右衛門〈かんえもん〉)。原節子演じる甘酒売りのお浪を救うため、2人が立ち上がる。実在の河内山宗春がモデル。悪党だが庶民の味方として歌舞伎などの題材になっている。
    −−「翳りと艶めかしさと 原節子さんを悼む 映画評論家・蓮實重彦」、『朝日新聞』2015年11月27日(金)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12088178.html


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