覚え書:「論の周辺 PR誌に見る連続と断層」、『毎日新聞』2015年12月08日(火)付夕刊。

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論の周辺
PR誌に見る連続と断層

毎日新聞2015年12月8日 東京夕刊
 
 2年前に創業100周年を迎えた岩波書店は、老舗出版社の一つというだけでなく、日本の学術・文化界に独特な存在感を持ってきた。「岩波文化人」という言葉が、知的エリートを指す一種のブランドイメージにもなっていた。

 同社は100年の節目に際し、『物語 岩波書店百年史』(全3巻)や、創業者の評伝『岩波茂雄』(中島岳志著)を出した。さらに『百年史』の第2巻を執筆した佐藤卓己・京都大教授が最近、『「図書」のメディア史』(同社)を刊行した。『図書』は1936年に創刊されたPR誌(初めは『岩波書店新刊』)で、70年代から今世紀初めまでは30万部を超えていた。

 戦中戦後の43−49年に7年近い休刊時期があるものの、この雑誌の歴史を語る本は、もう一つの社史の趣を持つ。「『図書』を資料とした『岩波書店の文化史』でもある」(あとがき)と著者は位置づける。

 とはいえ、「『教養主義』の広報戦略」を副題とする本書は、あくまで客観的に、いやむしろ、かなり批判的に同社の軌跡を描いている。例えば66年9月号の編集後記で小林勇(元会長)は、忘れられがちな戦時下の状況を、こう書いた。「検閲と統制が強化された。ほとんどの出版社がこぞって戦争に協力した。景気がよくなった。(中略)一九四三年ころから資材の欠乏等から生産が落ちた。しかし、各社とも作ったものは全部売れ、ストックはみな出てゆくから『景気』がよいと考えたが、実は再生産ができないのだから、結局衰退していたことになる」

 これを引用したうえで、「しかし、人々が忘れようとしたのは『結局衰退していたこと』ではなく、『こぞって戦争に協力した』こと、『景気がよくなった』ことの方である」と論じる著者の筆は鋭い。記憶すべきなのは42年までの出版界が「戦時景気に沸いていたこと、つまり行け行けどんどんの高揚感の中で真珠湾攻撃を迎えたことである」と続く。むろん同じ高揚感は新聞をはじめとする当時のメディア一般にもあった。

 また、戦後に出た『科学の事典』(50年)やシリーズ「岩波少年文庫」(同年創刊)が、戦時中に企画された叢書(そうしょ)「少国民のために」を起源とすることなど、戦前と戦後の連続性も指摘している。

 興味深いのは『図書』から読み取れる「岩波文化」の断層が、戦争よりも60年代末−70年代にくっきりと走っていたことだ。同社の出版物は戦前以来、旧制高校帝国大学生に見られたような「教養主義」的読者層に支えられていた。彼らが好んだ主要な著者・執筆者も、戦後しばらくは「大正期に青春を謳歌(おうか)した元旧制高校生」だったと佐藤さんはいう。

 「戦前世代の『戦後知識人』が縦横無尽に活躍した」60年代までの『図書』には「明朗なエリートの自負心」、「教養メディアの言説空間」が存在した。ところが、「学園紛争を経た一九七〇年代以降、大学からも『図書』からもこうした知的エリートの公共圏は見えなくなっていった」。

 代わりに登場するのが「一九八〇年代以後に脚光を浴びる新しい『知』のパラダイム」、ひと言でいえば「ポストモダンの潮流」だった。同誌74年5月号に載った河合隼雄(臨床心理学者、のち文化庁長官)、山口昌男文化人類学者)らの鼎談(ていだん)「人文科学の新しい地平」が、転換を象徴する例として挙げられている。一方、大学が大衆化する中で、同誌の読者は70年ごろを境に「青年」層から、そのまま持ち上がる形で「中高年層」へ移っていったと推測できるようだ。

 著者らしい資料の綿密な検証と豊富な引用から、教育と言論の近現代史が浮かび上がってくる。【大井浩一】=随時掲載
    −−「論の周辺 PR誌に見る連続と断層」、『毎日新聞』2015年12月08日(火)付夕刊。

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