覚え書:「今週の本棚・新刊 斎藤環・評 『日本の精神医学 この五〇年』=松本雅彦・著」、『毎日新聞』2015年11月22日(日)付。

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今週の本棚
斎藤環・評 『日本の精神医学 この五〇年』=松本雅彦・著

毎日新聞2015年11月22日 東京朝刊

カルチャー
本・書評
紙面掲載記事

 (みすず書房・3024円)

精神病理学の前途を開く泰斗の遺産

 先般惜しくも物故した精神病理学の泰斗による、わが国の戦後精神医学史の貴重な回顧である。私立精神科病院に長く勤務し、在野の期間が長かった著者の個人史は、アカデミズムの内側から見た精神医学史よりもはるかにリアルで生々しい。

 戦後の半世紀は、日本の精神医学史においても激動の時代であった。そもそも私宅監置、すなわち「座敷牢(ろう)」が禁止されたのがようやく1950年である。まだ治安目的の色彩が濃い精神衛生法の下、60年代には私立の精神科病院が国の援助を得て激増した。精神科病床数30万床以上というスキャンダラスな数字がなかなか減らせないのは、この時期に確立された収容主義による。若き日の著者もそうした病院の一つに勤務しながら、90床もの急性期病棟を一人で担当するという激務をこなしていた。

 60年代は、精神病理学の黎明(れいめい)期でもあった。これは「精神病」、とりわけ「分裂病」の心理メカニズムを解明せんとする学問領域である。それは厳(いか)めしい学問体系というよりも、孤独な臨床家たちが診療の合間をぬって談論風発のつどいを楽しむために要請されたもののように思われる。著者はこの時代に多くの論文と翻訳、さらに入門書(『精神病理学とは何だろうか』星和書店)を著して、この学問の全盛期を支えた立役者の一人だった。

 著者自身がそうであったように、文学や映画を愛好する精神科医たちが、神秘的なまでに謎めいた疾患である「分裂病」に惹(ひ)かれたのもゆえなきことではない。「牧畜業者(武見太郎)」などと揶揄(やゆ)された索漠たる診療環境の中で、精神病理学はまずなによりも、精神科医たちが自身の存在意義を確認するよすがとして要請されたのではなかったか。

 本書ではまた、60年代の全共闘運動の中で派生した精神医学の改革運動と反精神医学にも多くのページが割かれている。こうした運動の中で、ようやく患者の人権についての論議も活発化した。しかし、それにもかかわらず、84年には「宇都宮病院事件」が起きてしまう。看護職員の暴行によって患者2人が亡くなった事件である。この事件が全世界に報道され、国際的な批判を受けて、日本の精神医療はようやく人権重視の方向に舵(かじ)を取る。さらに95年の精神保健福祉法の施行を待って、日本の精神医療にも遅まきながら福祉の視点が導入された。

 こうした改革の背景にあって、もう一つの巨大な変化が密(ひそ)かに進行していた。アメリカの診断マニュアルDSM−3の導入である。専門性や価値観のいかんにかかわらず、誰が使っても同じ診断になるという触れ込みで導入されたこの操作的診断基準は、驚くほど急速にわが国の精神医療にも浸透した。

 DSMは本来、臨床のためではなく、疫学的統計的研究のための手引書である。それゆえ徹底した症状中心主義であり、理論的な深味はない。その爆発的普及は、製薬資本の戦略と相まって、標的となる症状を向精神薬で除去するという考え方を強化した。患者という個人を了解しつつ診る姿勢はそこなわれ、精神科臨床は効率化とともに寸断化された。いまや「病者から<何か>を学ぼうと」した、精神病理学エートスは見る影もなく衰退したのである。

 その衰退に拍車を掛けた要因はもう一つある。「統合失調症例の減少」である。著者はその減少の要因として、「精神分裂病」から「統合失調症」への呼称変更を挙げている。脳の機能障害が原因とされ、人種や地域と無関係に有病率が約1%とされてきた疾患について、こうした仮説は奇妙にも思われる。

 しかし、呼称は医師の認識そのものにも影響する。統合失調症という名のもとで、私たちは幻覚や妄想といった症状にしか注目しなくなった。それが私たちの想像力を削(そ)いでしまった。しかしそれは悪いことなのか。著者の仮説はさらに大胆に飛躍する。「精神分裂病はけっして単一の疾病ではなく二〇世紀の精神医学者たちが創出した単なる『疾病概念』にすぎないのではないのか」と。つまりかつての精神科医たちは、精神分裂病に狂気の理想型をみており、そこには精神分裂病を神格化したいという欲望が働いていたのではないか、とまで指摘するのだ。

 評者はこのあまりに率直な告白に感銘を受けた。精神病理学の中核をなしていた「分裂病」に、この学問に生涯を捧(ささ)げてきた精神科医が果敢にも引導を渡そうというのだ。お前の存在は幻なのだ、と。

 同じ精神科医として、評者は松本氏の認識に賛同する。評者は現在、フィンランドで開発された統合失調症の対話による治療、「オープンダイアローグ」の研究を進めている。この技法がターゲットとするのは、まさに「概念としての統合失調症」だ。薬物治療に比べても、きわめて高い治療成績を上げるとされるこの技法が普及すれば、精神病理学の“遺産”にも再び光が当てられる日が来るかもしれない。本書を松本氏の「白鳥の歌」に終わらせないためにも、氏の見識は正しく継承されなければならない。
    −−「今週の本棚・新刊 斎藤環・評 『日本の精神医学 この五〇年』=松本雅彦・著」、『毎日新聞』2015年11月22日(日)付。

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http://mainichi.jp/articles/20151122/ddm/015/070/009000c


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