覚え書:「いかがわしさ、楽しんだ 野坂昭如さんを悼む イラストレーター・山藤章二」、『朝日新聞』2015年12月11日(金)付。

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いかがわしさ、楽しんだ 野坂昭如さんを悼む イラストレーター・山藤章二
2015年12月11日

山藤章二画・野坂昭如
 極端にいうと、「いかがわしさのカリスマ」を持った人でした。

 1960年ごろに雑誌が次々と刊行され、書き手を探していました。そこに野坂昭如青島幸男大橋巨泉永六輔といった面々が登場した。彼らは放送作家やライターとして、裏方的にスターを作る側の人間でした。でも、だからこそ雑学が豊富で面白い話もたログイン前の続きくさん持っていた。そこに目をつけられたんですね。

 当時は大物の文士たちが健在で、新しい才能を持った者たちを軽く見てました。「永はマスコミの寄生虫だ」なんて。王道の文学者には邪魔な存在でしたから。

 でも、当時は60年安保の時代です。世の中も若者たちの心境もワイルドでした。ダメもとで一回書かせてみよう、ということがたくさんあって、その主役の座にいたのが野坂さんです。

 行儀の悪いコラムにグラビア、インタビューで、野坂さんの存在は表面化しました。エロチックなコラムは、男女の話を微に入り細を穿(うが)って書いていて、読者には新鮮でした。

 初めて一緒に仕事をしたのは69年。「週刊文春」から野坂さんのコラムに絵をつけてほしいと言われ、チャンスだと思いました。野坂さんなら、自由奔放に描いていい、と。文章に沿った絵ではなく、邪魔をして漫才のボケと突っ込みのようなことをやった。「エロトピア」という連載です。そこから筒井康隆さん、藤本義一さんといった兄貴分のような人たちとも仕事ができるようになった。僕にとっては恩人です。

 ただ野坂さんは、文章ではイヤミをいうんです。山藤には盆暮れに付け届けをしているのに、俺の顔は猿みたいに描く、とか。それはネタです。読者が面白がるから、書いてやろうという気持ちがあった。会うとむしろ丁寧でしたよ。照れ屋で、紳士的に当たり前のことばかり話しました。

 文化人がテレビに飛び出すのも、野坂さんが切り開いた道でしょう。「ソ・ソ・ソクラテスか……」という70年代に流れたサントリーウイスキーのテレビCMでは、ギクシャクした踊りまで見せて、不器用だけどそれが面白かった。今でいう「ヘタウマ」の走りじゃないですか。

 なぜテレビに出たのかは分かりません。彼のお父さんは地方政治家で、テレビ番組にもでていましたから、父親への反発意識もあったのかもしれません。

 でも彼には自分の本道は作家にある、国民文学として名を残すという志があった。当時は五木寛之というライバルがいて、骨組みのしっかりした小説を書いていました。当初は葛藤もあったと思いますが、途中からは本人も楽しんでいました。世の中を野坂だらけにしてやれ、と。

 さすがに晩年は野心的でインモラルなものを熱く描くパワーは薄れました。その代わり、戦争を思い起こし、老境を読ませるようになりました。

 倒れて何年も経っているので、死は驚きません。でも一時代をイメージ通りのものに作りあげ、信奉者もつくったのですから、大成功だと思います。(構成・高津祐典)
    −−「いかがわしさ、楽しんだ 野坂昭如さんを悼む イラストレーター・山藤章二」、『朝日新聞』2015年12月11日(金)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12111808.html





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