覚え書:「昭和史のかたち 永井荷風の虚無=保阪正康」、『毎日新聞』2015年12月12日(土)付。

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昭和史のかたち
永井荷風の虚無=保阪正康

毎日新聞2015年12月12日 東京朝刊

紙面掲載記事

コラージュ・日比野英志


心理的閉塞状況こそ最大の敵

 作家・永井荷風の「断腸亭日乗」は、私たちに多くの示唆を与えてくれる書である。大正6(1917)年9月16日を初日として、昭和34(59)年4月30日に亡くなる前日まで、自らの日常を記録し続けた。「荷風文学に特殊な位置を占める日記文学(略)これは荷風作品中最も秀でた創作として評価する人もいる」と実弟の永井威三郎は書いている。

 この「断腸亭日乗」に、なぜ今、私たちは引きつけられるのか。時代がどのように変容しようとも、人は自らの感性と思想とで生きられると教えているし、一方でたとえ戦争という時代に入ろうともそれに応じることなく、冷徹に時代を見つめることが可能だと実感させる。もっとも徴兵される世代であればそうはいかないのだが、老いていればそういう生き方ができる。荷風はそれを身をもって示したのである。

 昭和12(37)年7月7日の盧溝橋事件を機に日中戦争は始まっていくが、荷風は6月23日から7月14日までは何も書いていない。つまり取り立てて日記に書くことはなく、自分にとってはいつもと変わらない日々だったという意味になる。日中戦争なぞ書くに値しないと考えたわけだ。17日になっての記述に次のような一節がある。

 「街頭には男女の学生白布を持ち行人に請ふて赤糸にて日の丸を縫はしむ。燕京出征軍に贈るなりと云ふ。いづこの国の風習を学ぶにや滑稽(こっけい)と云ふべし」

 街の中で千人針まがいの儀式が行われている。北京の古い言い方である燕京という語に、皮肉が込められている。荷風は昭和10年代を突き放して見つめ、戦争に傾く日本社会を鋭く見抜く。昭和16年10月18日には、近衛文麿内閣に代わって東条英機内閣が誕生すると、「内閣変わりて人心さらに恐々たり。日米開戦の噂(うわさ)益(ますます)盛なり」と書く。

 そして真珠湾攻撃の12月8日は、興奮する人々を尻目に「浮沈」の原稿を書き始めたことや号外が出たことを書き、「余が乗りたる電車乗客雑踏せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり」と淡々としている。

 黄いろい声とは、興奮している庶民の姿である。

 荷風に限らず戦後になって明らかになった知識人の日記には、戦争の時代を傍観者の目や市民の目で見つめて、狂騒を笑うがごとき表現や内容も少なくない。外交評論家の清沢洌(きよし)や作家の高見順などの日記に、私自身、大いに刺激を受ける。自由に言論を発揮できない苦しさを日記の中にたたきつけるといってもいいであろう。このことを十分了解しながら、さてもう一面でどのような理解をすべきかとの問いも発したくなる。

 こうした知識人たちの日記を深読みすると、その行間からは、<何と愚かで扇動にのりやすい大衆なのか。政治、軍事指導者はそれを利用しているが、彼らもまた知性も教養もない>といった怒りが浮かぶ。やがてその怒りは、<まあ勝手にやるがいいさ。痛い目に遭わなきゃわからんのだろう。私はどうなろうと知らんよ>といった感情につながっているように思う。

 私はむろん永井荷風に畏敬(いけい)の念をもっているし、「断腸亭日乗」をファシズム心理的に抵抗した証しと見ている。そのことを前提に言うのだが、荷風の心理に潜んでいるニヒリズム虚無主義)にも注目すべきだと思う。とくにこのところの日本社会を見ていてその感を深くする。

 戦後70年の今年、私は意図的に講演を引き受けた。カルチャーセンターや市民講座での定期的な講座を含めると100回は優に超えた。安倍晋三政権の集団的自衛権行使に向けた動き、安全保障関連法に危機意識を持ったためでもあったが、その体験を通して人々の中に虚無感が流れているのを肌で感じることも多くなった。これだけ反対しても何の意味もないとか、安保関連法が通って支持率が上がるとはどういうことか、とのむなしさを持っている。世論調査がどういう手法で行われているか、それは信用できるのか、など考えようともしない。

 虚無感の広がりをニヒリズムの時代の到来と私は案じるのだが、ニヒリズムは権力の横暴を許すだけである。荷風の時代には、自らの意見を公表する自由などなかったのだから、その心理の根底にニヒリズムが宿っても批判できない。いやむしろ教訓にせよと荷風は伝えているのかもしれないとも思う。

 今、私たちの最大の敵は現実をニヒリズムでとらえて心理的閉塞(へいそく)状況をつくることではないか。戦後71年に向けて昭和という時代の史実をなおのこと検証して教訓を己のものとしていく覚悟が必要になっている。

 ■人物略歴

ほさか・まさやす

 ノンフィクション作家。次回は来年1月9日に掲載します。
    −−「昭和史のかたち 永井荷風の虚無=保阪正康」、『毎日新聞』2015年12月12日(土)付。

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