覚え書:「耕論:ひとりでも考える 矢野久美子さん、室井佑月さん」、『朝日新聞』2015年12月16日(水)付。

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耕論:ひとりでも考える 矢野久美子さん、室井佑月さん
2015年12月16日

 今年の夏、男も女も、老いも若きも、様々な人たちが国会前に集まって、安保法制に反対するデモを大いに盛り上げた。だがみんなで集まるその前に、または集まりながら、ひとりでも考えてみよう。それが大切なことだから。

 ■他者に学び自分の言葉で語れ 矢野久美子さん(フェリス女学院大学教授)

 今年夏、安保関連法案に反対する国会前デモの光景は、私にとって、とても印象深いものでした。何時間も立ったままの人、あるいは腰を下ろした人。とにかく大勢の人々が、登壇者の意見表明に、じっと耳を澄ませていました。

 自分の主張を叫びたくて来たというより、政治の状況にいたたまれず、何が起きているか知りたい、自分の頭で考えたいという思いから参加しているようでした。

 ■大衆の危うさ

 その姿を見て、私はユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレント(1906〜75)の言葉を思い出しました。彼女は「思考は職業的哲学者の特許ではない」と強調しています。政治や社会について考えることは、学者だけの仕事ではない。市井に生きる一人ひとりが、自ら考えることが大切だ、と説いているのです。ナチス政権のユダヤ人に対する迫害を逃れて米国に亡命し、個人の連帯と共生を模索し続けた哲学者の言葉に、この夏のデモはふさわしい営みだったのではないか、と思います。

 彼女は、大衆運動の変革へのパワーを評価していました。半面、民主主義や大衆運動の危うさも指摘しています。ナチスを生み、多様性を失わせたのも、民主的といわれた当時のドイツ社会でした。集団となった人々は、熱にうかされやすい面があり、画一的で異質さを排除する傾向を持ち、ときに暴力性をはらむ。ユダヤ人である彼女は、そのことを身をもって知っていたのです。

 彼女はまた、戦後も同じような問題に直面します。ホロコーストに関与したナチスの軍人、アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記で、ナチスに協力したユダヤ人組織があった事実を示しました。すると、今度は同胞から「ユダヤ人への愛がないのか」と徹底的に糾弾され、孤立します。

 生涯を通じて、一枚岩になった集団と個人との相克を、肌で感じ続けた人であったのです。

 一人の小さな声は、多数派にのみ込まれやすい。集団になると、人々は不寛容な方向へ転じる場合もある。それは残念ながら、今なお、社会の課題であり続けています。日本でも近年、ヘイトスピーチのような行為に加わる人々の動きが報じられています。無責任な憎悪の広がり、思考を伴わない大衆の扇情的な動きには、注意しなければなりません。

 ■触発され発言

 11月半ば、フランス・パリで同時多発テロが起きました。その直後のことでしたが、勤務先の大学で同僚らと安保法制を考える小さな集会を開きました。小さな子どものいる卒業生や市民の方たちを含めて40人ほどが参加しました。みんな、よくしゃべりました。安保法制によって日本も暴力の連鎖に巻き込まれるのではないか、といったテロや戦争への不安。誰も殺し、殺させてはいけないという決意、集団的自衛権を認める政治への疑問。現役学生のメッセージも読み上げられました。他の人の話を聞き、その言葉に触発されて、発言が続いていく。

 素朴ではありましたが、素直で切実で、心の中から発している言葉であることが伝わってきました。とても刺激的でした。そして、私にとって、その刺激はとても心地よいものでした。こんな快い経験は、久しぶりでした。

 一人で問う、ということは、必ずしも部屋に閉じこもって書物を読むことでも、抽象的な思索を重ねることでもありません。集会やデモに参加して、他者と対話することから学び、自分の言葉で語る。どうせ動員されただけだろ、と言われたら、「いや、一人で参加していたよ」と、いろいろな形で発信してください。集団や権力に対抗する力を持たない個人にとって、物を考えるということ、理解しようとすることそのものが、力になるのです。

 アーレントは、こんな言葉も残しています。どんな人からでも、学び始めることができる、と。

 (聞き手・藤生京子)

     *

 やのくみこ 64年生まれ。専門は思想史。著書に「ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所」「ハンナ・アーレント 『戦争の世紀』を生きた政治哲学者」。

     ◇

 ■物言えぬ空気出来上がる前に 室井佑月さん(作家)

 私の一人の力などたかが知れています。朝日新聞を始め大手マスコミの人たちは、なにをしているのでしょう。この国の将来を左右する事柄がつぎつぎに起きています。国民の側に立ってきちんと報道しているでしょうか。

 個人に意見をいわせ、クレームがついたら、トカゲのしっぽを切るみたいなことが起きています。ずっとそんなことをしていくつもりでしょうか。それで、行き過ぎた権力への監視という役目を、果たしているといえるでしょうか。

 私は殴られ役みたいなものだ、ということに納得はしているんです。学歴もない私が子どもを育てながら生きていけるので、それでいいと思っている。しかし、私一人が頑張ったところで、なにも変わらないでしょう。

 大手マスコミは、このまま世の中の空気の変化を見ていないフリをしていくんでしょうか。特定秘密保護法とか安保法制とか、国民の反対が根強い法律が通るのを止められなかった。国民全体でもっと議論が深まるような報道もしていなかった。私にはちゃんとやっていましたよ、というアリバイ作りしか考えていないように見えました。

 ■主役は私たち

 安保関連法案の国会審議中は、いてもたってもいられず、デモへ駆けつけました。集団行動も屋外も嫌いですけど、一人でも多くの反対意見を示すべき時だと思ったからです。

 国民にまともな説明がなかったことは、許しがたいこと。この国の主役は、国民ですよね。それも親の代から金持ちで身分が決まっているような人間じゃない。普通の、一番人数が多い私たちなわけでしょう。

 安保法制について安倍(晋三)さんは、丁寧に説明をするって言っていましたが、私はそういう印象を受けなかった。私たちの疑問は疑問のまま放っておかれた。国会でも強引な採決ですからね。国民に説明したってわからないという態度は、かなり私たちを馬鹿にしていると思います。

 週刊朝日のコラムに「私たちはどこへ売られていくかわからない子どものようだ」と書いたんです。安保法ができて、この国も戦争に参加するようになるかもしれない。TPPの参加で、これまでの暮らしが変わってしまうかもしれない。丁寧な説明を拒む政治家は、そんな私たちの不安がわからないのだと思います。

 ■流されぬよう

 自分の発言で気をつけていることは幾つかあります。政治家の発表や、政府よりの専門家の強い意見に、流されないこと。わからないことはわからないとその場で疑問をはさみます。もっと鋭く質問できるようになりたいです。

 それと、ごまかされないようにすること。ごまかそうとしているなと感じたときは、その人の怪しい発言をわざと「――とおっしゃいました?」と、繰り返すようにしています。テレビの前の人たちの印象に、しっかり残るようにです。

 まあ、大したことはやれていないですけど、「おかしいと思う人は自分以外にもいたんだ」と知ってもらえたらいいんです。

 自分の意見をいえない、世の中の空気が出来上がってしまうのが怖いです。完全にそうなってしまえば、もう誰も声なんてあげられなくなってしまいます。

 それと、知らず知らずに間違ったふうに誘導されてはいけない。権力者たちは弱い者同士がたたき合う構図を作るのがうまい。たとえば、生活保護をたたく低所得者みたいに。

 そういうことをなくすためには、私たち一人ひとりが、もっと世の中の空気に敏感にならないと。誰かがするからいいだろうとボケッとしているのは、危険なことです。苦情だけでなく、いい記事や番組をみかけたらよかったと声をあげる、それだって嫌な空気を壊す有効な手段だと思います。

 (聞き手・秋山惣一郎)

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 むろいゆづき 70年生まれ。ホステスなど様々な職業を経て文筆活動へ。テレビワイドショーのコメンテーターとしても活躍。原発問題でも発言を続ける。
    −−「耕論:ひとりでも考える 矢野久美子さん、室井佑月さん」、『朝日新聞』2015年12月16日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12118512.html


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